玉勝間 / 六の巻 花のさだめ
大かた梅の花は、ちひさき枝を、物にさして、近く見たるぞ、梢ながらよりは、まされる。桃の花は、あまた咲キ續きたるを、遠く見たるはよし。近くては、鄙びたり。山吹、かきつばた、なでしこ、萩すすき、女郞花など、とりどりにめでたし。菊も、よき程につくろひたるこそよけれ。あまりうるはしく、したたかに造りなしたるは、中中にしな無くなつかしからず。つつじ、野山に多く咲たるは、目覺むるここちす。かいだうと云ふ物、からめきて、こまやかにうるはしき花なり。そもそもかく云ふは、皆おのが思ふ心にこそあれ、人は又思ふ心ことなッべければ、一やうに定むべきわざには有らず。又今やうの、世の人のもてはやすめる花どもも、世に多かるを、かぞへいでぬは、殊更めきたるやうなれど、歌にも詠みたらず、古き物にも、見えたる事無きは、心のなしにや、なつかしからず覺ゆかし。されどそれはた、ひとやうなるひが心にやあらむ。
新字:大かた梅の花は、ちひさき枝を、物にさして、近く見たるぞ、梢ながらよりは、まされる。桃の花は、あまた咲キ続きたるを、遠く見たるはよし。近くては、鄙びたり。山吹、かきつばた、なでしこ、萩すすき、女郎花など、とりどりにめでたし。菊も、よき程につくろひたるこそよけれ。あまりうるはしく、したたかに造りなしたるは、中中にしな無くなつかしからず。つつじ、野山に多く咲たるは、目覚むるここちす。かいだうと云ふ物、からめきて、こまやかにうるはしき花なり。そもそもかく云ふは、皆おのが思ふ心にこそあれ、人は又思ふ心ことなッべければ、一やうに定むべきわざには有らず。又今やうの、世の人のもてはやすめる花どもも、世に多かるを、かぞへいでぬは、殊更めきたるやうなれど、歌にも詠みたらず、古き物にも、見えたる事無きは、心のなしにや、なつかしからず覚ゆかし。されどそれはた、ひとやうなるひが心にやあらむ。
書き下し
大かた梅の花は、ちいさき枝を、物にさして、近く見たるぞ、梢ながらよりは、まされる。桃の花は、あまた咲き続きたるを、遠く見たるはよし。近くては、鄙びたり。山吹、かきつばた、なでしこ、萩すすき、女郎花など、とりどりにめでたし。菊も、よき程につくろいたるこそよけれ。あまりうるわしく、したたかに造りなしたるは、中中にしな無くなつかしからず。つつじ、野山に多く咲きたるは、目覚むるここちす。かいどうと云う物、からめきて、こまやかにうるわしき花なり。そもそもかく云うは、皆おのが思う心にこそあれ、人はまた思う心ことなるべければ、一ようにさだむべきわざには有らず。また今ようの、世の人のもてはやすめる花どもも、世に多かるを、かぞえいでぬは、殊更めきたるようなれど、歌にも詠みたらず、古き物にも、見えたる事無きは、心のなしにや、なつかしからず覚ゆかし。されどそれはた、ひとようなるひが心にやあらむ。
現代語訳
およそ梅の花は、小さな枝を花器などに挿して近くで見るのが、梢に咲いたまま見るよりもまさっている。桃の花は、たくさん咲き続いているのを遠くから見るのがよい。近くで見ると田舎びている。山吹、かきつばた、なでしこ、萩、すすき、女郎花などは、それぞれに見事である。菊も、ほどよく手入れしたのがよい。あまりに整えすぎ、念入りに作り立てたものは、かえって品がなく、心惹かれない。つつじが野山にたくさん咲いているのは、目が覚めるような心地がする。海棠というものは、唐風で、細やかにうるわしい花である。そもそもこう言うのは、みな私の思う心であって、人はまた思う心が違うだろうから、一様に定めるべきことではない。また当世風の、世の人がもてはやしているらしい花々も世に多いのに、それを数え上げないのは、わざとらしいようだが、歌にも詠まれておらず、古い書物にも見えないものは、気のせいだろうか、心惹かれないように思われるのである。しかしそれもまた、偏った考えだろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 花のさだめ花はさくら。桜は、山桜の、葉あかく照りて、細きが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐうべき物も無く、うき世のものとも思われず。葉青くて、花のまばらなるは、こよなくおくれたり。大かた山ざくらと云う中にも、しなじなの有りて、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかわれる処有りて、またく同じきは無きようなり。また今の世に、桐がやつ八重一重など云うも、ようかわりて、いとめでたし。すべて曇れる日の空に見あげたるは、花の色あざやかならず。松も何も、あおやかに茂りたるこなたに咲けるは、色はえて、ことに見ゆ。空清くはれたる日、日影のさすかたより見たるは、においこよなくて、おなじ花とも覚えぬまでなん。朝日はさらなり、夕ばえも。梅は紅梅、ひらけさしたる程ぞ、いとめでたきを、盛りになるままに、ようようしらけゆきて、見所無くなるこそ、いとくちおしけれ。さくらの咲ける頃までも、散る事知らで、むげに匂い無く、ねびれしぼみて、残りたるを見れば、げに有りて世の中は、何事も皆かくこそと、見る春ごとに、思い知らるかし。白きはすべて香こそあれ、見るめはしなおくれたり。
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『幽夢影』巻上・花の目に宜しく復た鼻に宜しき者花の目に宜しく復た鼻の香に宜しきは、梅なり、菊なり、蘭なり、水仙なり、珠蘭なり、蓮なり。止だ鼻に宜しき者は、櫞なり、桂なり、瑞香なり、梔子なり、茉莉なり、木香なり、玫瑰なり、臘梅なり。餘は則ち皆目に宜しき者なり。花と葉と俱に觀るべき者は、秋海棠を最と爲し、荷之に次ぐ。海棠・酴醾・虞美人・水仙は、又之に次ぐ。葉の花に勝る者は、止だ鴈來紅・美人蕉のみ。花と葉と俱に觀るに足らざる者は、紫薇なり、辛夷なり。
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徒然草・第139段家にありたき木は、松、桜。松は五葉もよし。花は一重なるよし。八重桜は奈良の都にのみありけるを、この頃ぞ世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたくねぢけたり。植ゑずともありなむ。遅桜またすさまじ。虫のつきたるもむつかし。梅は白き、うす紅梅、一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の、匂ひめでたきも、みなをかし。「おそき梅は、桜に咲きあひて、おぼえ劣り、けおされて、枝に萎みつきたる、心憂し。一重なるがまづ咲きて散りたるは、心疾くをかし。」とて、京極入道中納言は、なほ一重梅をなむ軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南むきに、今も二本はべるめり。柳またをかし。卯月ばかりの若楓、すべて万の花紅葉にも優りてめでたきものなり。橘、桂、何れも木は物古り、大きなる、よし。草は山吹、藤、杜若、撫子。池には蓮。秋の草は荻、薄、桔梗、萩、女郎花、藤袴、紫菀、吾木香、刈萱、竜胆、菊、黄菊も、蔦、葛、朝顔、いづれもいと高からず、さゝやかなる垣に、しげからぬよし。この外世にまれなるおの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見なれぬなど、いとなつかしからず。大かた何も珍しくありがたきものは、よからぬ人のもて興ずるものなり。さやうの物なくてありなむ。
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『幽夢影』巻下・梅は人をして高からしむ梅は人をして高からしめ、蘭は人をして幽ならしめ、菊は人をして野ならしめ、蓮は人をして淡ならしめ、春海棠は人をして艷ならしめ、牡丹は人をして豪ならしめ、蕉と竹とは人をして韻あらしめ、秋海棠は人をして媚ならしめ、松は人をして逸ならしめ、桐は人をして淸からしめ、柳は人をして感ぜしむ。
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『玉勝間』四の巻 桜を花と云ふ事ただ花と云いて桜の事にするは、古今集の頃までは、聞こえぬ事なり。契沖ほうしが余材抄に、委しく云えるが如し。源氏物語若菜の上の巻に、梅の事を云うとて、花のさかりにならべて見ばやと云える事あり、是れらはまさしく桜を分けて花と云えり。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひけんこう法師がつれづれ草に、花は盛りに、月はくまなきをのみ見る物かはとか云えるは、いかにぞや。古えの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとい、あるは待ち惜しむ心づくしを詠めるぞ多くて、心深きも、ことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからむ事を思う心のせちなるからこそ、さもえあらぬを歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲をねがいたるは有らん。さるをかの法師が云えるごとくなるは、人の心にさかいたる、後の世のさかしら心の、つくり風流にして、まことのみやび心には有らず。かの法師が云える言ども、このたぐい多し。皆同じ事なり。すべてなべての人のねがう心にたがえるを、雅とするは、つくり事ぞ多かりける。恋に、あえるをよろこぶ歌は、心深からで、あわぬをなげく歌のみ多くして、心深きも逢い見む事をねがうからなり。
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