玉勝間 / 十三の巻 文字を添て書る例
同集に、雖干跡、將有裳、不知爾、これらの書ざま、下なる跡ノ字裳ノ字爾ノ字依れるが如し。此例、續紀の宣命ノ詞、又菅家萬葉などにも有リ、其外にも有しとおぼゆ。
新字:同集に、雖干跡、将有裳、不知爾、これらの書ざま、下なる跡ノ字裳ノ字爾ノ字依れるが如し。此例、続紀の宣命ノ詞、又菅家万葉などにも有リ、其外にも有しとおぼゆ。
書き下し
同集に、雖干跡、将有裳、不知爾、これらの書きざま、下なる跡の字裳の字爾の字余れるが如し。この例、続紀の宣命の詞、又菅家万葉などにも有り、その外にも有りしとおぼゆ。
現代語訳
同じ『万葉集』に、「雖干跡(ひるとも)」「将有裳(あらむも)」「不知爾(しらに)」などとある、これらの書き方は、下にある「跡」の字、「裳」の字、「爾」の字が余っているように見える。この例は、『続日本紀』の宣命の言葉や、また『菅家万葉集』(新撰万葉集)などにもあり、そのほかにもあったと記憶している。
解説
『万葉集』の表記で、「雖(とも)」の後にさらに「跡(と)」を添え、「不知(しらに)」の後にさらに「爾(に)」を添えるように、漢字の意味ですでに表した音を、仮名でもう一度書き添える書き方を指摘した短い段である。前の段で論じた「不」を省く書き方とは逆に、字が余る例である。宣長は同じ書き癖が『続日本紀』の宣命や、菅原道真の撰と伝える『新撰万葉集』にも見えるとして、一つの歌集だけの特殊な癖ではないことを示している。漢字で日本語を書こうとした古代の人々は、意味を表す字と音を表す字を組み合わせ、読み誤られないよう送り仮名のような工夫を重ねた。今の送り仮名の源流ともいえる工夫を、宣長は短い観察の中で書き留めている。
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。
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