導師導古典を学びたいすべての人に

玉勝間 / 十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例

又七の卷に、池邊小槻下、細竹苅嫌云云、また此崗、草苅小子、然苅云云、これらも莫ノ字を略きたるものか。されど此二ッならでは、見あたらねば、これは寫し脫せるにも有らむか、定め難し。そもそも不ノ字は、有ると無きとは、その意反なれば、いかに略くとても、これは略くべき文字には有らざれども、文字のうへこそさることなれ。口に云ふ言のうへにては、成散など讀付るぬも、同じ音なり。殊になにぬねのは、やはらかに輕き音なれば、よみつけもしつべきにこそ。猶云はば不知を古言にしらにと云ふを、不知爾とも書るところどころある、これは又不ノ字あまれば、字のうへにて云はば、これも意の反になるにあらずや。

新字:又七の巻に、池辺小槻下、細竹苅嫌云云、また此崗、草苅小子、然苅云云、これらも莫ノ字を略きたるものか。されど此二ッならでは、見あたらねば、これは写し脱せるにも有らむか、定め難し。そもそも不ノ字は、有ると無きとは、その意反なれば、いかに略くとても、これは略くべき文字には有らざれども、文字のうへこそさることなれ。口に云ふ言のうへにては、成散など読付るぬも、同じ音なり。殊になにぬねのは、やはらかに軽き音なれば、よみつけもしつべきにこそ。猶云はば不知を古言にしらにと云ふを、不知爾とも書るところどころある、これは又不ノ字あまれば、字のうへにて云はば、これも意の反になるにあらずや。

書き下し

又七の巻に、「池の辺の小槻の下の、細竹な苅りそね」云云、また「この岡に、草苅る小子、然な苅りそね」云云、これらも莫の字を略きたるものか。されどこの二つならでは、見あたらねば、これは写し脱せるにも有らむか、定め難し。そもそも不の字は、有ると無きとは、その意反なれば、いかに略くとても、これは略くべき文字には有らざれども、文字のうえこそさることなれ。口に云う言のうえにては、成散など読み付くるぬも、同じ音なり。殊になにぬねのは、やわらかに軽き音なれば、よみつけもしつべきにこそ。猶云わば不知を古言にしらにと云うを、不知爾とも書けるところどころある、これは又不の字あまれば、字のうえにて云わば、これも意の反になるにあらずや。

現代語訳

また巻七の「池のほとりの小さな槻の木の下の篠竹を刈らないでおくれ」云々、また「この岡で草を刈る若者よ、そのように刈らないでおくれ」云々、これらも「莫(な)」の字を省いたものであろうか。けれどもこの二首以外には見当たらないので、これは写すときに脱落したのかもしれず、決めがたい。そもそも「不」の字は、あるのと無いのとでは意味が正反対になるのだから、どれほど省くといっても、省いてよい文字ではないけれども、それは文字の上でのことである。口に出して言う言葉の上では、「成る」「散る」などに読み添える「ぬ」も同じ音である。とりわけナ行の音は柔らかく軽い音なので、読み添えることもできたのであろう。さらに言えば、「知らず」を古語で「しらに」と言うのを、「不知爾」と書いたところがあちこちにあるが、これは逆に「不」の字が余っているのだから、字の上で言えば、これもまた意味が正反対になってしまうではないか。

解説

前段の続きである。「な刈りそね」の「な」にあたる「莫」の字も省かれているかと考えつつ、二例しかないので写し落としの可能性も捨てず、判断を保留している。例の数で確信の度合いを変える慎重さである。そのうえで宣長は、意味が正反対になる「不」の字をなぜ省けたのかを説明する。文字の上では大問題でも、口で言う言葉の上では、完了の「ぬ」も打消しの「ぬ」も同じ音で、ナ行の軽い音は読み添えやすかった。さらに「しらに」を「不知爾」と書けば、字の上ではかえって「不」が余る。つまり万葉の用字は、字面の論理より声の言葉に従っていたというのである。言葉の本体は音声にあり、文字は後から当てたものだという、宣長の言語観がはっきり表れている。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る