玉勝間 / 十三の巻 同集の歌に生刀もなしと云へる詞
同集ノ歌に、生るともなしと詠める多し。二の卷に、衾道乎云云生跡毛無、また衾路云云生刀毛無、また天離云云生刀毛無、十一の卷に、云云吾情利乃生戶裳名寸、十二の卷に、萱草云云生跡文奈思、また空蟬之子云云生跡毛奈思、また白銅鏡云云生跡文無、十九の卷に、白玉之云云伊家流等毛奈之、これらなり。いづれもみな、十九の卷なる假字書キにならひて、イケルトモナシと訓べし、本にイケリトモナシと訓るは誤なり。生る刀とは、刀は利心、心利などの利にて、生る利心も無く、心の空けたる由なり。されば刀は、辭の登にはあらず。これによりて伊家流等と云へるなり。もし辭なれば、イケリトモナシと云ふぞ、詞のさだまりなる。又刀ノ字などは、てにをはのトには用ひざる假字なり。これらを以て、古、假字づかひの嚴なりしこと、又詞つづけのみだりならざりし程をも知ルべし。然るを本に、イケリトモナシと訓るは、是等のわきためなく、唯だ辭と心得たるひがことなり。
新字:同集ノ歌に、生るともなしと詠める多し。二の巻に、衾道乎云云生跡毛無、また衾路云云生刀毛無、また天離云云生刀毛無、十一の巻に、云云吾情利乃生戸裳名寸、十二の巻に、萱草云云生跡文奈思、また空蝉之子云云生跡毛奈思、また白銅鏡云云生跡文無、十九の巻に、白玉之云云伊家流等毛奈之、これらなり。いづれもみな、十九の巻なる仮字書キにならひて、イケルトモナシと訓べし、本にイケリトモナシと訓るは誤なり。生る刀とは、刀は利心、心利などの利にて、生る利心も無く、心の空けたる由なり。されば刀は、辞の登にはあらず。これによりて伊家流等と云へるなり。もし辞なれば、イケリトモナシと云ふぞ、詞のさだまりなる。又刀ノ字などは、てにをはのトには用ひざる仮字なり。これらを以て、古、仮字づかひの厳なりしこと、又詞つづけのみだりならざりし程をも知ルべし。然るを本に、イケリトモナシと訓るは、是等のわきためなく、唯だ辞と心得たるひがことなり。
書き下し
同集の歌に、生けるともなしと詠める多し。二の巻に、「衾道を」云云「生けるともなし」、また「衾路」云云「生けるともなし」、また「天離る」云云「生けるともなし」、十一の巻に、云云「吾が心利の生けるともなき」、十二の巻に、「萱草」云云「生けるともなし」、また「うつせみの」云云「生けるともなし」、また「まそかがみ」云云「生けるともなし」、十九の巻に、「白玉の」云云「いけるともなし」、これらなり。いずれもみな、十九の巻なる仮字書きにならいて、イケルトモナシと訓むべし、本にイケリトモナシと訓めるは誤りなり。生ける刀とは、刀は利心、心利などの利にて、生ける利心も無く、心の空けたるよしなり。されば刀は、辞の登にはあらず。これによりて伊家流等と云えるなり。もし辞なれば、イケリトモナシと云うぞ、詞のさだまりなる。又刀の字などは、てにをはのトには用いざる仮字なり。これらを以て、古、仮字づかいの厳なりしこと、又詞つづけのみだりならざりし程をも知るべし。然るを本に、イケリトモナシと訓めるは、これらのわきためなく、ただ辞と心得たるひがことなり。
現代語訳
同じ『万葉集』の歌に、「生けるともなし」と詠んだものが多い。巻二の「衾道を……生跡毛無」、また「衾路……生刀毛無」、また「天離る……生刀毛無」、巻十一の「……吾が心利の生戸裳名寸」、巻十二の「萱草……生跡文奈思」、また「うつせみの……生跡毛奈思」、また「まそかがみ……生跡文無」、巻十九の「白玉の……伊家流等毛奈之」、これらである。どれもみな、巻十九の仮名書きにならって「イケルトモナシ」と訓むべきで、本に「イケリトモナシ」と訓んでいるのは誤りである。「生ける刀(と)」というのは、「と」は「利心(とごころ)」「心利(こころと)」などの「利(と)」で、生きている確かな心もなく、心がうつろになったという意味である。だから「刀」は、助詞の「と」ではない。そのため「伊家流等(いけると)」と言ったのである。もし助詞であるなら「イケリトモナシ」と言うのが言葉のきまりである。また「刀」の字などは、助詞の「と」には用いない仮名である。これらのことから、古の仮名遣いが厳格であったこと、また言葉の続け方が乱れていなかったほどをも知るべきである。それなのに本に「イケリトモナシ」と訓んでいるのは、これらの区別をわきまえず、ただ助詞だと思い込んだ誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 同集に必みけりけると云ふべきところに在ノ字を書る事同集に、必ずケリ、ケルと云うべき処に、在の字を書ける例、七の巻に、君がため云云沾れにける哉、十の巻に、誰が苑の云云咲きにけるかも云云、また零る雪云云月経にける、十一の巻に、世の中云云猶恋いにける、また石すら尚云云後悔いにける、また行き行き云云沾れにける哉、また是の川云云乗りにけるかも。これらの在の字、来の誤りと云う人もあれど、かくあまた例あれば、然は云いがたし。又強いて皆、ニタルとも訓むべけれども、猶ケル、ケリならでは、穏やかならぬところなり。又同巻に、大土云云恋いにける、また袖振る云云隠れにける、これらも、アリ、タリは読み付けて在の字は、ケル、ケリなり。そもそもケル、ケリに、この字を書ける事、いかなる由にか、いまだ考え得ず。つねに来の字を書くは、来而在を、古言に祁理と云う故に、それを借りたるものなり。こは事のついでに云うなり。
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『玉勝間』十三の巻 文字を添て書る例同集に、雖干跡、将有裳、不知爾、これらの書きざま、下なる跡の字裳の字爾の字余れるが如し。この例、続紀の宣命の詞、又菅家万葉などにも有り、その外にも有りしとおぼゆ。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例又七の巻に、「池の辺の小槻の下の、細竹な苅りそね」云云、また「この岡に、草苅る小子、然な苅りそね」云云、これらも莫の字を略きたるものか。されどこの二つならでは、見あたらねば、これは写し脱せるにも有らむか、定め難し。そもそも不の字は、有ると無きとは、その意反なれば、いかに略くとても、これは略くべき文字には有らざれども、文字のうえこそさることなれ。口に云う言のうえにては、成散など読み付くるぬも、同じ音なり。殊になにぬねのは、やわらかに軽き音なれば、よみつけもしつべきにこそ。猶云わば不知を古言にしらにと云うを、不知爾とも書けるところどころある、これは又不の字あまれば、字のうえにて云わば、これも意の反になるにあらずや。
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『玉勝間』十四の巻 夜〃寝ず起てゐるを居と云へる事万葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「真袖もち床うちはらい君まつと居りしあいだに月かたぶきぬ、十八に、「おりあかしこよいはのまむ、ほととぎすあけむあしたはなきわたらむぞ、二十に「家おもうといをねずおれば、たずがなくあしべも見えず春の霞に、なおあり。大かたこのたぐいの居は、ただ一わたり軽くつねに云うとはかわりて、夜る寝ずに、起きて居る意なり。軽く見るべからず。
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『玉勝間』十一の巻 万葉集をよむこころばへ然れども誤字なるを知らずして、本のままに訓めるなどには、強いたる事多く、そのほかすべての訓みざまも、なおよからざること多きを、その後またこの集の事、いよいよ委しくなりもてきぬるまにまに、訓もいと善くなれれども、なおいまだ〓く直りはてたりとは云いがたし。まず誤字のことごとく知られざる程は、訓もことごとくよろしくは直り難きわざなり。誤字のなおいと多かるを、その字のままに訓まむとせむには、かえりてしい言になるたぐい多かるべきをよく心得べし。またすべての訓みざま、仮字書きの所をよく考えて、その例をもてよむべきなり。おおかたこれら、この集をよむに、むねと心得べき事どもなりかし。
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