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玉勝間 / 十三の巻 万葉集に不ノ字を略きて書る例

萬葉集七の卷に、靑角髮、依網原、人相鴨、石走、淡海縣物語爲、此二三の句、よさみの原に人もあはぬかもと訓べし。あはぬかもは、あへかしとねがふ例の言なり。九の卷に雲隱、鴈鳴時、秋山黃葉片待、時者雖過、此結句、時はすぎねどと訓までは、聞えぬ歌なり。十の卷に、霞發、春永日、戀暮、夜深去、妹相鴨此結句も、あはぬかもと訓までは聞えず。同卷に、五月山、宇能花月夜、霍公鳥、雖聞不飽、又鳴鴨これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の卷に、我勢古波、幸座、遍來我告來、人來鴨、これもこぬかもにて、來かしと待ッ意なり。同卷に、日並、人可知、今日、如千歳有與鴨、同卷に、如是爲乍、吾待印、有鴨、世人皆乃、常不在國、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同卷に、敷細、枕動而宿不所寢、物念此夕、急明鴨、これも同じ。件の歌どもみな、不ノ字を省きて書るものなり。此例なほ引もらせるも有らむか、准へて知るべし。いづれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなはぬことを考、得て、不ノ字を脫せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一ッ二ッのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落たるにはあらざる事をさとるべし。

新字:万葉集七の巻に、青角髪、依網原、人相鴨、石走、淡海県物語為、此二三の句、よさみの原に人もあはぬかもと訓べし。あはぬかもは、あへかしとねがふ例の言なり。九の巻に雲隠、鴈鳴時、秋山黄葉片待、時者雖過、此結句、時はすぎねどと訓までは、聞えぬ歌なり。十の巻に、霞発、春永日、恋暮、夜深去、妹相鴨此結句も、あはぬかもと訓までは聞えず。同巻に、五月山、宇能花月夜、霍公鳥、雖聞不飽、又鳴鴨これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、我勢古波、幸座、遍来我告来、人来鴨、これもこぬかもにて、来かしと待ッ意なり。同巻に、日並、人可知、今日、如千歳有与鴨、同巻に、如是為乍、吾待印、有鴨、世人皆乃、常不在国、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、敷細、枕動而宿不所寝、物念此夕、急明鴨、これも同じ。件の歌どもみな、不ノ字を省きて書るものなり。此例なほ引もらせるも有らむか、准へて知るべし。いづれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなはぬことを考、得て、不ノ字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一ッ二ッのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落たるにはあらざる事をさとるべし。

書き下し

万葉集七の巻に、「青みずら、依網の原に、人も逢わぬかも、石走る、淡海県の物語せむ」、この二三の句、よさみの原に人もあわぬかもと訓むべし。あわぬかもは、あえかしとねがう例の言なり。九の巻に「雲隠る、雁鳴く時は、秋山の黄葉片待つ、時はすぎねど」、この結句、時はすぎねどと訓までは、聞こえぬ歌なり。十の巻に、「霞立つ、春の永日を、恋い暮らし、夜の更けゆけば、妹に逢わぬかも」この結句も、あわぬかもと訓までは聞こえず。同巻に、「五月山、卯の花月夜、ほととぎす、聞けども飽かず、又鳴かぬかも」これもなかぬかもにて、又なけかしの意なり。十一の巻に、「我が背子は、幸く座すと、遍く来て我に告げ来む、人も来ぬかも」、これもこぬかもにて、来かしと待つ意なり。同巻に、「日並べば、人知りぬべし、今日の日の、千歳のごとく有らぬかも」、同巻に、「かくしつつ、吾が待つしるし、有らぬかも、世の人皆の、常にあらなくに」、三の句あらぬかもにて、あれかしの意なり。又同巻に、「しきたえの、枕動きて寝ねらえず、物念うこの夕、急く明けぬかも」、これも同じ。件の歌どもみな、不の字を省きて書けるものなり。この例なお引きもらせるも有らむか、なぞらえて知るべし。いずれも本の訓はひがことなり。然るを、ぬと訓までかなわぬことを考え得て、不の字を脱せるかとまでは、心づける人も有れども、そを略ける例なる事をさとれる人は、いまだあらず。一つ二つのみならず、かくあまた例あるにて、たまたま落ちたるにはあらざる事をさとるべし。

現代語訳

『万葉集』巻七の「青みずら依網の原に人も逢わぬかも、石走る淡海県の物語をしよう」という歌の第二・三句は、「よさみの原に人もあわぬかも」と訓むべきである。「あわぬかも」は、逢ってほしいと願ういつもの言い方である。巻九の「雲に隠れる雁の鳴く時は、秋山の黄葉をひたすら待つ、時は過ぎていないけれど」の結句は、「時はすぎねど」と訓まなければ意味の通らない歌である。巻十の「霞の立つ春の長い日を恋しく思って暮らし、夜が更けていくので、妻に逢えないものか」の結句も、「あわぬかも」と訓まなければ意味が通らない。同じ巻の「五月の山の卯の花の咲く月夜に、ほととぎすの声は聞いても飽きない、また鳴いてくれないものか」も「なかぬかも」で、また鳴いてくれという意味である。巻十一の「我が夫は無事でいると、あちこちを回って来て私に告げに来てくれる人も来ないものか」も「こぬかも」で、来てくれと待つ意味である。同じ巻の「日を重ねたら人に知られてしまうだろう、今日一日が千年のようにあってくれないものか」、同じ巻の「こうして私が待っているしるしがあってくれないものか、世の人はみな常住ではないのだから」は、第三句が「あらぬかも」で、あってくれという意味である。また同じ巻の「枕が動いて寝つかれず、物思いをするこの夕べ、早く明けてくれないものか」も同じである。これらの歌はみな、「不」の字を省いて書いたものである。この例はまだ引き漏らしたものもあろうが、これに準じて知るがよい。どれも本に付いている訓は誤りである。そして、「ぬ」と訓まなければ合わないことに気づいて、「不」の字が脱落したのかというところまで思い至った人はいるけれども、それが省いて書く書き方の例であることを悟った人は、まだいない。一つ二つだけでなく、このように多くの例があるのだから、たまたま字が落ちたのではないことを悟るべきである。

解説

『万葉集』の漢字表記に、打消しの「不」の字を書かずに「ぬ」と読ませる書き方があることを、多くの歌を並べて論じた段である。「逢わぬかも」「鳴かぬかも」は、逢ってほしい、鳴いてほしいと願う言い方で、「ぬ」が無いと意味が通らない。従来の訓はそこを読み誤り、気づいた人も一字の脱落と考えていた。宣長は、一首だけなら脱字も疑えるが、これほど例が重なるなら偶然ではなく、書き方の約束だと見る。例を集めて規則を立てるこの方法は、『古事記伝』の訓読でも貫かれた宣長の学問の骨格である。表記は当時の書き手の工夫であって、後の人の常識で文字を補ったり削ったりしてはならない。一つの例外を誤りと片づける前に、同じ型を探してみることの大切さを教える段である。

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