玉勝間 / 七の巻 物書くに心すべき事
歌など、又さらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云ふたぐひの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書事なれども、然か書ては、あるはとも、あらばとも讀まれ、其外もそのでうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、讀み誤りて、寫すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、假字にもかきなす事有リ。されば斯くたがひに讀みまがふべき言は、みな假字に書くべきわざなり。又霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などやうに云ふを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは惡ろし。用言に云ふ時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などやうに、はたらく文字をそへて書クべし。すべて斯く體と用とにつかふ詞は、用の時は、はたらく文字を添て書かざれば、まぎるること有なり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐひなり。又もみぢばと云ふに、唯だ紅葉とのみ書ては、もみぢとのみ云ふと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有まじき書ざまなり、もみぢ葉と書べきなり。葉をば眞字に書べし、これをもともに假字に書ては、テニヲハのハにまぎるればなり。
新字:歌など、又さらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云ふたぐひの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書事なれども、然か書ては、あるはとも、あらばとも読まれ、其外もそのでうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、読み誤りて、写すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、仮字にもかきなす事有リ。されば斯くたがひに読みまがふべき言は、みな仮字に書くべきわざなり。又霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などやうに云ふを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは悪ろし。用言に云ふ時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などやうに、はたらく文字をそへて書クべし。すべて斯く体と用とにつかふ詞は、用の時は、はたらく文字を添て書かざれば、まぎるること有なり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐひなり。又もみぢばと云ふに、唯だ紅葉とのみ書ては、もみぢとのみ云ふと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有まじき書ざまなり、もみぢ葉と書べきなり。葉をば真字に書べし、これをもともに仮字に書ては、テニヲハのハにまぎるればなり。
書き下し
歌など、またさらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云うたぐいの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書く事なれども、然か書きては、あるはとも、あらばとも読まれ、その外もそのじょうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、読み誤りて、写すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、仮字にもかきなす事有り。さればかくたがいに読みまがうべき言は、みな仮字に書くべきわざなり。また霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などように云うを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは悪ろし。用言に云う時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などように、はたらく文字をそえて書くべし。すべてかく体と用とにつかう詞は、用の時は、はたらく文字を添えて書かざれば、まぎるること有るなり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐいなり。またもみじばと云うに、ただ紅葉とのみ書きては、もみじとのみ云うと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有るまじき書きざまなり、もみじ葉と書くべきなり。葉をば真字に書くべし、これをもともに仮字に書きては、テニヲハのハにまぎるればなり。
現代語訳
歌など、またそれ以外のことでも、ものを書くのに心得ておくべきことがある。「あれば」「ゆけば」「きけば」「さけば」「ちれば」などという類の言葉を、誰もが「有ば」「行ば」「聞ば」「咲ば」「散ば」と書くけれども、そう書くと「あるは」とも「あらば」とも読まれ、そのほかも同じようにまぎれるので、語の意味を知らない人は読み誤って、書き写すときに「ゆけば」であるのを「ゆくは」とも「ゆかば」とも仮名に書き直してしまうことがある。だから、このように互いに読みまぎれる言葉は、みな仮名で書くべきである。また「霞」「契」などを用言として「かすみけり」「かすむ月」「ちぎらぬ」「ちぎる言の葉」などと言うのを、「霞けり」「霞月」「契ぬ」「契言の葉」などと書くのはよくない。用言として言うときは、「霞みけり」「霞む月」「契らぬ」「契る言の葉」などのように、活用する文字を添えて書くべきである。総じてこのように体言と用言の両方に使う言葉は、用言のときは活用する文字を添えて書かないと、まぎれることがあるのである。活用する文字とは、「霞まん」「霞み」「霞む」「霞め」の「ま・み・む・め」の類である。また「もみじば」と言うのに、ただ「紅葉」とだけ書くと「もみじ」とだけ言うのとまぎれるので、いつも「紅葉葉」と書くけれども、これはまったくあってはならない書き方である。「もみじ葉」と書くべきである。「葉」は漢字で書くべきである。これも一緒に仮名で書くと、てにをはの「は」とまぎれるからである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事またかくれが、すみかなどのカに、家の字を書くは、ひがことなり。これらのカは、処の意にて、家と云う事には有らず。されど処と書くべきにはた有らざれば、ただ仮字に書くぞ善き。また隠が、住かなど、上を真字、下を仮字に書きたるは、こちなく見ゆ。このたぐい皆同じ。さびしに淋の字、いかにぞやおぼゆ。ながめに詠の字もいかが、詠は、声を長むることにこそ有れ、物を見るながめには、よし無し。さてまた常に目なれぬ文字をつかう事、すべて悪ろし。すべて上の件のたぐいの事ども、なおいと多かるを、今はただ思い出ずるままに、一つ二つ云えるのみなり。なずらえて心得べし。そもそも古人は、必ずさしもこまかには物せず、物書きたるも、おおらかにて、文字なども、心にまかせて書きたれば、今もただいかに書きても有りぬべし、さまでこちたく事を分けむは、くだくだしき後の世心にこそ有らめ、と思う人、有るべし。すべて古をこのみて、万ずに心高からむとかまうる人は、かかる事云うをば、心ひきく拙きわざと、もどくべかめれど、それ然しも有らじ。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事古は、かたえの人も、皆心明らかなりしかば、いかに書きても、読みたがうる事無かりしかばこそ有れ、今の世は、みずからこそ心得たらめ、かたえの人は、心得たらねば、ともすれば、読みたがえ、写しひがむるたぐいのみ多かれば、いかにももの書くには、心すべきわざぞと、おのれは思いとりてぞ在る。さればおのが癖にて、つねに物書くに、読みたがえやせん、写しひがめやせんとのみ、心するほどに、もとよりいといと拙き手をいとどしじかみて、かたわには有るなり。また古言などは、殊に人の読みたがえ、誤る事多きを、いかであやまらず、正しく読ましめんとする程に、さらでも有るべき所にも、度ごとに仮字づけしなどして、心高き人には、わらわるるを、みずからも且つは知りながら、しみつきたる癖は、世に離れがたきわざになん。
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『玉勝間』十二の巻 のもじ添て書ノまじき例今の世の学者、物書くに、の文字を書くまじき所に、添えて書くこと多し。たとえば国の名を某の国、人の名を某の君など書くのもじなり。かかるたぐいは皆、某国某君と書きて、のは読み付くべき例なるを書き添えたるは、こちなくかたわに見ゆるわざぞかし。但しやまとの国げんじの君などように、仮字に書く時は、の文字必ず書くべし。こののもじの例、たとえば在原業平朝臣、ありわらの業平朝臣、在原のなりひらの朝臣、かくの如し。これにて書くべきと、書かで読み付くべきとのけじめをわきまうべし。さるを今の世の人は、大かたの文字を読みつくることを知らで、のもじ書きたらぬをば、のとは読まぬたぐい多かる故に、そこを思いて、書くまじき処にも、書くなめり。また古学のともがらなどは、殊に万葉集の歌の書きざまにならいて、歌ならぬ事も、書きざまみだりなること多し。かの集の歌を書けるようは、歌ならぬ物書くのりには採り難きことのみ多きぞかし。
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『玉勝間』六の巻 書うつし物書く事ふみを写すに、同じくだりのうち、或るはならべるくだりなどに、同じ詞の有る時は、見まがえて、そのあいだなる詞どもを、写し漏らす事、常によく有るわざなり。また一ひらと思いて、二ひら重ねてかえしては、その間の一ひらを、みながら落とすことも有り。これら常に心すべきわざなり。またよく似て、見まがえやすき文字などは、殊にまがうまじく、たしかに書くべきなり。これは写しがきのみにもあらず、おおかた物書くに、心得べき事ぞ。すべて物を書くは、事のこころをしめさむとてなれば、おうなおうな文字さだかにこそ書かまほしけれ。さるをひたすら、筆のいきおいを見せむとのみしたるは、いかなる事とも、読み解きがたきが、世に多かる、あじきなきわざなり。常に書きかわす、消息文なども、文字読みがたくては、云いやるすじ、ゆきとおらず、読む人はた苦しみて、かしらかたぶけつつ、かえさい読めども、ついに読み得ずなどしては、ここ読みがたしと、かえし問わんも、さすがに無体しきようなれば、ただおしはかりに心得ては、事たがいもするぞかし。
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『玉勝間』六の巻 かなづかひ仮字づかいは、近き世明らかになりて、古学するかぎりの人は、心すめれば、おさおさあやまる事無きを、宣長が弟子どもの、常に歌書きつらねて見するを見るに、誤りのみ多かるは、またいかにぞや。そもそもてにをはのととのえなどは、うい学びの力及ばぬふし有る物なれば、あやまるも、罪ゆるさるるを、仮字づかいは、今は正濫抄もしは古言梯などをだに見ば、むげに物しらぬわらわべも、いとよくわきまうべき業なるを、なおとりはずして、書きひがむるは、かえすがえすいかにぞや。これはた心とどめず、またひたぶるに学びおやにすがりて、たがえらむは、直さるべしと、思いおこたりて、おのが力入れざるからの業にし有れば、かつは憎くさえぞ覚ゆる。しか人にのみすがりたらんには、ついに仮字づかいをば、知る世無くてぞ止みぬべかりける。さればイヰエヱオヲを、またはヒフヘホワヰウヱヲを、またしちすつの濁音など、いささかも疑わしくおぼえむ仮字は、わずらわしくとも、それしるせる書を、書かむたび毎にひらき見て、たしかにうかべずは、止むべきに有らず。何わざも、己が力を入れずては、為得る事かたかるべきわざぞ。人の子の、年たくるまで、親の手はなるる事知らざらむは、いといと云うかいなからじやは。
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『玉勝間』十三の巻 文字を添て書る例同集に、雖干跡、将有裳、不知爾、これらの書きざま、下なる跡の字裳の字爾の字余れるが如し。この例、続紀の宣命の詞、又菅家万葉などにも有り、その外にも有りしとおぼゆ。
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