玉勝間 / 十三の巻 島
俗にいはゆる作リ庭泉-水築山の事を、古、には島と云へり。萬葉集二の卷に、日並知皇子尊の薨坐ッし時、その宮の舍人等、慟傷作歌二十三首の中に、御立爲之嶋乎見時云云、御立爲之嶋之荒磯乎云云、嶋御橋爾云云、嶋乃御門爾云云、などある嶋これなり。こは彼ノ皇子ノ尊の、造り給へる嶋なり。同じ時の歌どもの中に、そこを嶋宮と詠めるも、嶋をむねとしたる宮のよしなり。橘之島ノ宮とも詠める、橘はそこの地ノ名なり。又六の卷に、鶯之鳴吾嶋曾云云とあるも、吾宅の嶋なり。十九の卷に、雪嶋巖爾殖有奈泥之故波云云、是れは雪のふり積りたる嶋なり。同時の歌に、君宅之雪巖爾、ともあるにて知べし。さて撫ッ子は、造りて雪の巖に殖たる花なり。又同卷に、島山爾照在橘云云、これは新嘗會の肆宴のをりの歌にて、大宮の內の島の山なり。又廿の卷に、屬目山齋作歌、乎之能須牟伎美我許乃之麻云云は、池に鴛の住ム、君が宅の此嶋なり。さてこは、端書の山齋をも、卽チしまと訓ムべし。此名、島によくあたれり。さて又伊勢物語に、島このみ給ふ君なりとあるも、同じ事にて、造り庭を好みめで給ふを云へり。
新字:俗にいはゆる作リ庭泉-水築山の事を、古、には島と云へり。万葉集二の巻に、日並知皇子尊の薨坐ッし時、その宮の舎人等、慟傷作歌二十三首の中に、御立為之嶋乎見時云云、御立為之嶋之荒磯乎云云、嶋御橋爾云云、嶋乃御門爾云云、などある嶋これなり。こは彼ノ皇子ノ尊の、造り給へる嶋なり。同じ時の歌どもの中に、そこを嶋宮と詠めるも、嶋をむねとしたる宮のよしなり。橘之島ノ宮とも詠める、橘はそこの地ノ名なり。又六の巻に、鶯之鳴吾嶋曽云云とあるも、吾宅の嶋なり。十九の巻に、雪嶋巖爾殖有奈泥之故波云云、是れは雪のふり積りたる嶋なり。同時の歌に、君宅之雪巖爾、ともあるにて知べし。さて撫ッ子は、造りて雪の巖に殖たる花なり。又同巻に、島山爾照在橘云云、これは新嘗会の肆宴のをりの歌にて、大宮の内の島の山なり。又廿の巻に、属目山斎作歌、乎之能須牟伎美我許乃之麻云云は、池に鴛の住ム、君が宅の此嶋なり。さてこは、端書の山斎をも、即チしまと訓ムべし。此名、島によくあたれり。さて又伊勢物語に、島このみ給ふ君なりとあるも、同じ事にて、造り庭を好みめで給ふを云へり。
書き下し
俗にいわゆる作り庭泉水築山の事を、古には島と云えり。万葉集二の巻に、日並知皇子尊の薨り坐しし時、その宮の舎人等、慟傷して作る歌二十三首の中に、「御立たしし島を見る時」云云、「御立たしし島の荒磯を」云云、「島の御橋に」云云、「島の御門に」云云、などある島これなり。こはかの皇子の尊の、造り給える島なり。同じ時の歌どもの中に、そこを島の宮と詠めるも、島をむねとしたる宮のよしなり。橘の島の宮とも詠める、橘はそこの地の名なり。又六の巻に、「鶯の鳴く吾が島ぞ」云云とあるも、吾が宅の島なり。十九の巻に、「雪の島巌に植えたる撫子は」云云、これは雪のふり積もりたる島なり。同じ時の歌に、「君が宅の雪の巌に」、ともあるにて知るべし。さて撫子は、造りて雪の巌に植えたる花なり。又同巻に、「島山に照れる橘」云云、これは新嘗会の肆宴のおりの歌にて、大宮の内の島の山なり。又廿の巻に、山斎を属目して作る歌、「おしの住む君がこのしま」云云は、池に鴛の住む、君が宅のこの島なり。さてこは、端書の山斎をも、即ちしまと訓むべし。この名、島によくあたれり。さて又伊勢物語に、島このみ給う君なりとあるも、同じ事にて、造り庭を好みめで給うを云えり。
現代語訳
世間でいわゆる造り庭、泉水や築山のことを、古には「島」と言った。『万葉集』巻二に、日並知皇子尊(草壁皇子)が亡くなった時、その宮の舎人たちが嘆き悲しんで作った歌二十三首の中に、「皇子がお立ちになった島を見る時」云々、「お立ちになった島の荒磯を」云々、「島の御橋に」云々、「島の御門に」云々などとある「島」がこれである。これはあの皇子の尊がお造りになった庭である。同じ時の歌の中で、そこを「島の宮」と詠んでいるのも、庭を中心とした宮であるという意味である。「橘の島の宮」とも詠んでいるが、橘はそこの地名である。また巻六に「鶯の鳴く我が島だ」云々とあるのも、我が家の庭である。巻十九の「雪の島の岩に植えた撫子は」云々は、雪の降り積もった庭である。同じ時の歌に「あなたの家の雪の岩に」ともあることで分かる。そして撫子は、作り物として雪の岩に植えた花である。また同じ巻の「島山に照り輝く橘」云々は、新嘗会の宴の折の歌で、宮中の庭の築山である。また巻二十の、山斎(庭園)を見て作った歌の「おしどりの住む、あなたのこの島」云々は、池におしどりの住む、あなたの家のこの庭である。そしてこれは、題詞の「山斎」も、そのまま「しま」と訓むべきである。この名は庭によく当てはまっている。さらに『伊勢物語』に「島を好まれる君である」とあるのも同じことで、造り庭を好んで愛でられることを言っている。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に山ノ字を玉に誤れる例万葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、「三吉野の玉松が枝は」云云、十五の巻に、やままつかげにともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、この歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云うことは、有る事無し。又同じ二の巻に、「人はよし思いやむとも玉かずら影に見えつつ」云云、こは山かずらは、日かげかずらのことにて、影の枕詞に置けるなり。山かずら日かげとつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かずらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かずらかげと有り、みなかげは日かげのかずらの事なり。然るを後の世に、この玉かずらを、山かずらの誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、「斎串立て」云云「雲聚の玉蔭見ればともしも」、こはうずに垂れたる日かげのかずらなり。十六の巻に、「あしひきの玉かずらの児」とあるは、あしひきのとあれば、山なること論無し。即ち「玉久世の清き河原」云云と云う歌も、ならべる歌には、山かずらの児とあり。さて件の例どもによりて思えば、十一の巻に、山代の久世の河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云うことは、有るべくも覚えず。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集なる藤原ノ宮之役民作歌されば浮き居てにて、しばらく絶えたる語にて、ただに吾が作るへはつづかず。「吾が作る」云云は、吾は役民の吾なり。さて日の御門にとあるを以て見れば、この作者の役民は、藤原の宮の地に在りて、役わるる民なり。上の云云「さわく御民も」とある民にはあらず。思いまがうべからず。「泉の河に持ち越せる」は、宇治川より上げて、陸路を泉川まで持ち越して、又流すなり。こは今の世の心を以て思えば、宇治川より直に下すべき事なるに、泉川へ持ち越して下せるは、いかなる由にか、古は然すべき故有りけむかし。「泝すらむ」とは海より紀の川へ入れて、紀の川を泝すを云いて、さて巨勢路より、宮処に運ぶまでを兼ねたり。さればこは、泉の河に持ち越せる材を、云云して、この泝すらむ巨勢道より、吾が作る日の御門にのぼすらむ、と云う語のつづきにて、御門にの爾と、巨勢道よりの従とを、辞にて結びたるものなり。辞のはこびを、熟く尋ねてさとるべし、なおざりに見ば、まがいぬべし。さて「らむ」と疑いたるは、この作者は、宮造りの地に在りて詠めるよしなれば、はじめ田上山より伐り出だせるより、巨勢道を運ぶまでは、皆よその事にて、見ざる事なればなり。さて「いそわく見れば」とは、宮地へ運び来たるを、目のまえに見たるを云えり。
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『玉勝間』六の巻 なづさふ万葉集に、なずさうと云う言、あまた所に見えたり。昔より、この詞を解きたる説、皆あたらず。今その歌どもを、あまねく考え合するに、或いは海川などに浮かべること、或いは船より渡る事などに云い、枕詞にも、引網の、鳥じもの、におどりのなど云いて、いずれもいずれも、水に着く事にのみ云えり。水によらぬは一つも無し。集の中の歌どもを、試みて知るべし。その中に、三の巻なる長歌に、「いかならむ年の月日か、つつじ花かぐわし君が、引網のなずさいこむと云云、これは上にも下にも、海川などの事見えねども、他の例をもて思うに、海路を経て帰り来べき国の人なるべし。また九の巻の長歌の反歌に、「いとま有らばなずさいわたり云云、これも海川の事は見えざれども、渡りと云い、長歌にも、滝のうえのと有れば、山川を渡りゆく事なり。この外はみな、海また川などにのみ詠めれば、論無し。然るにこの詞、中昔の物語書などに云えるは、いたく意異にして、馴れ親しむ事に云えり。神楽の歌に、「すめ神の御手にとられてなずさわましを、と有るも然かなり。いかにしてかくまでは移りかわりけん。万葉に云えるとは、いささかも似よれるかた無し。
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『玉勝間』十四の巻 夜〃寝ず起てゐるを居と云へる事万葉集二に、「居あかして君をばまたむ、ぬば玉のわが黒髪に霜はふるとも、十一に、「真袖もち床うちはらい君まつと居りしあいだに月かたぶきぬ、十八に、「おりあかしこよいはのまむ、ほととぎすあけむあしたはなきわたらむぞ、二十に「家おもうといをねずおれば、たずがなくあしべも見えず春の霞に、なおあり。大かたこのたぐいの居は、ただ一わたり軽くつねに云うとはかわりて、夜る寝ずに、起きて居る意なり。軽く見るべからず。
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『玉勝間』三の巻 五十師原山辺御井これによりて思うに、仏をえりたるは、ほうしの例のしわざにて、後の事にて、もとは上つ代より、此あやしき石の有りしによりてぞ、いしの原とは名に負いたりけむ。今もそのあたり、広くかの山辺村のきわまで、同じ野の続ける所なり。かくて万葉集十三の巻なるかの長歌は、持統天皇の、此国に行幸ありしおりの、行宮のさまをよめりと聞こえたれば、かの赤人の屋敷跡と云うなる地ぞ、その行宮の跡なるべき。おのれ此の地の事、年ごろ猶いぶかしかりければ、いにし寛政元年三月、尾張の名児屋に物せしかえるさに、立ちよりて考えしに、まず山辺村、今はやまべと云いて、鈴鹿の郡にて、河曲の郡の堺なり。石薬師の駅より、六七町もあらんか、野原を行きて、東北の方なり。その野は、まりが野と云いて、西の方は能煩野へ続きて、いといと広きを、此山辺村は、その野の東のはずれのにわかにくだりたるきわの、ひきき所なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり。さればかの長歌の反歌に、おのずからなれる錦を張れる山かもと詠めるも、西の方よりは、ただ平なる地の続きなれども、東より見たるさまによりて、山とは云えるなりけり。
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