玉勝間 / 十一の巻 万葉集をよむこころばへ
萬葉集今の本、文字を誤れる所いと多し、こは近き世の事にはあらで、いと早くより、久しく誤り來ぬるものとぞ見えたる。然るに近き頃は、古學おこりて、むねと此集を心にかくるともがら、多きが故につぎつぎによき考へ出來て、誤れる字も、やうやうに知られたること多し。されど猶知られざるも多きなり。その心してよむべきなり。むげに聞えぬところどころなどは、大かた誤字にぞ有ける。さて又すべて訓も、誤いと多し。さるは此集はじめは、訓は無かりしを、やや後に始めて附ヶたりし。その訓は、いといとをさなくて、えもいはぬひがことのみにして、さらに用ひ難きものなりしを、中むかしまでさて有しを、仙覺と云ひけるほうし、力を用ひて多く訓を改めたる、今の本は、此仙覺が訓にて、もとのに比ぶれば、こよなくまさりてぞ有ける。然れども猶よからざること多きを、近き世に契沖法師があらためたるにて、又こよなく善くなれり。
新字:万葉集今の本、文字を誤れる所いと多し、こは近き世の事にはあらで、いと早くより、久しく誤り来ぬるものとぞ見えたる。然るに近き頃は、古学おこりて、むねと此集を心にかくるともがら、多きが故につぎつぎによき考へ出来て、誤れる字も、やうやうに知られたること多し。されど猶知られざるも多きなり。その心してよむべきなり。むげに聞えぬところどころなどは、大かた誤字にぞ有ける。さて又すべて訓も、誤いと多し。さるは此集はじめは、訓は無かりしを、やや後に始めて附ヶたりし。その訓は、いといとをさなくて、えもいはぬひがことのみにして、さらに用ひ難きものなりしを、中むかしまでさて有しを、仙覚と云ひけるほうし、力を用ひて多く訓を改めたる、今の本は、此仙覚が訓にて、もとのに比ぶれば、こよなくまさりてぞ有ける。然れども猶よからざること多きを、近き世に契沖法師があらためたるにて、又こよなく善くなれり。
書き下し
万葉集今の本、文字を誤れる所いと多し、こは近き世の事にはあらで、いと早くより、久しく誤り来ぬるものとぞ見えたる。然るに近き頃は、古学おこりて、むねとこの集を心にかくるともがら、多きが故につぎつぎによき考え出で来て、誤れる字も、ようやくに知られたること多し。されどなお知られざるも多きなり。その心してよむべきなり。むげに聞こえぬところどころなどは、大かた誤字にぞ有りける。さてまたすべて訓も、誤りいと多し。さるはこの集はじめは、訓は無かりしを、やや後に始めて附けたりし。その訓は、いといとおさなくて、えもいわぬひがことのみにして、さらに用い難きものなりしを、中むかしまでさて有りしを、仙覚と云いけるほうし、力を用いて多く訓を改めたる、今の本は、この仙覚が訓にて、もとのに比ぶれば、こよなくまさりてぞ有りける。然れどもなおよからざること多きを、近き世に契沖法師があらためたるにて、またこよなく善くなれり。
現代語訳
『万葉集』の今の本には、文字を誤っている所がたいへん多い。これは近い世のことではなく、ずっと早くから長く誤って来たものと見える。ところが近ごろは古学が興って、この集を主に心にかける人々が多いので、次々によい考えが出て来て、誤った字もしだいに知られるようになったことが多い。けれどもまだ知られていないものも多いのである。その心づもりで読むべきである。まったく意味の通らない所などは、たいていは誤字なのである。さてまた、すべて訓(読み)も誤りがたいへん多い。というのも、この集は初めは訓がなかったのを、やや後になって初めて付けたのである。その訓はたいへん幼稚で、何とも言えない誤りばかりで、まったく用いがたいものであったが、中古まではそのままであった。仙覚という法師が力を尽くして多くの訓を改めた。今の本はこの仙覚の訓で、元のものに比べれば、この上なく優れている。けれどもなおよくないところが多かったのを、近い世に契沖法師が改めたので、またこの上なくよくなった。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 万葉集をよむこころばへ然れども誤字なるを知らずして、本のままに訓めるなどには、強いたる事多く、そのほかすべての訓みざまも、なおよからざること多きを、その後またこの集の事、いよいよ委しくなりもてきぬるまにまに、訓もいと善くなれれども、なおいまだ〓く直りはてたりとは云いがたし。まず誤字のことごとく知られざる程は、訓もことごとくよろしくは直り難きわざなり。誤字のなおいと多かるを、その字のままに訓まむとせむには、かえりてしい言になるたぐい多かるべきをよく心得べし。またすべての訓みざま、仮字書きの所をよく考えて、その例をもてよむべきなり。おおかたこれら、この集をよむに、むねと心得べき事どもなりかし。
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『玉勝間』一の巻 また書紀の今の本は、もじの誤りもところどころ有り。また訓も、古言ながら、多くは今の京になりての云いざまにて、音便の詞などいと多きに、中にはまたいと古くめづらかにたふとき事もまじれるを、その訓おおくは全からず。あるいはなかば欠け、あるいはもじあやまりなど、すべてうるわしからず、しどけなきは、いといとくち惜しきわざなり。板本一つならでは世に無く、古き写し本はたいと稀なれば、これかれをくらべ見て、直すべき便りも無く、すべて今これをきよらにうるわしく、改め直さむ事は、いといとかたきわざなり。今の世の物知り人、おのれ古のこころ詞をうまらに明らめ得たりと思いがおなるも、なおひがことのみ多かれば、これ改めたらむには、中々の物ぞこないぞ多かるべき。されば今これをえり改めむとならば、文字の誤りをのみただして、訓をば、暫らくもとのままにて有らむかたぞ、まさりぬべき。
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うひ山ぶみ・注[ム]みづからも古風の歌をまなびてよむべしおのづからの勢ヒにて、万葉に載れるころの歌にいたりては、みなかまへてよくよまんと、求めたる物にこそあれ、おのづからに出来たるは、いとすくなかるべし、万葉の歌すでに然るうへは、まして後世今の世には、よくよまんとかまふること、何かはとがむべき、これおのづからの勢ヒなれば、古風の歌をよまん人も、隨分に詞をえらびて、うるはしくよろしくよむべき也、万葉の歌の中にても云々、此集は、撰びてあつめたる集にはあらず、よきあしきえらびなく、あつめたれば、古ヘながらも、あしき歌も多し、善悪をわきまへて、よるべきなり、今の世、古風をよむともがらの、よみ出る歌を見るに、万葉の中にても、ことに耳なれぬ、あやしき詞をえり出つかひて、ひたすらにふるめかして、人の耳をおどろかさんとかまふるは、いといとよろしからぬこと也、歌も文も、しひてふるくせんとて、求め過たるは、かへすかへすうるさく、見ぐるしきものぞかし、万葉の中にても、たゞやすらかに、すがたよき歌を、手本として、詞もあやしきをば好むまじき也、
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『玉勝間』二の巻 ふみども今は得やすくなれる事二三十年あなたまでは、歌まなびする人も、ただ近き世の歌ぶみをのみ学びて、万葉をまなぶ事無く、また神学者と云う物も、ただ漢ざまの理をのみさだして、古のまことのこころを得むことを思わねば、万葉をまなぶ事無くて、すべて万葉は、歌まなびにも、道の学びにも、必ずまずまなばでかなわぬ書なる事を、知れる人無かりき。されば、契沖ほうし、むねとこの集を明らめて、古の意をもかつがつうかがいそめて、はしばし云いおきつれども、歌人も神学者も、このしるべによるべき事を知れる人無かりしかば、おのが若くて、京に在りし頃などまでは、代匠記と云う物の有る事をだに知れる人も、おさおさ無かりければ、その書世にまれにして、いといと得がたく、かの人の書は、百人一首の改観抄だに、得がたかりしを、そのかみおのれ京にて、始めて人に借りて見て、買わばやと思いて、本屋をたずねたりしに、無かりき。板本なるにいかなれば無きぞと問いしかば、ようずる人無き故に、すり出ださずとぞ云えりける。さてとかくして、からくしてぞ得たりける。
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『玉勝間』十三の巻 万葉集に山ノ字を玉に誤れる例万葉集に、山の字を玉に誤れる例多し。草書にては、山と玉とよく似たる故なり。二の巻に、「三吉野の玉松が枝は」云云、十五の巻に、やままつかげにともあり。玉は山を誤れることしるし。然るを後の歌に、玉松と詠めるは、この歌によれるにて、皆ひがことなり。玉松と云うことは、有る事無し。又同じ二の巻に、「人はよし思いやむとも玉かずら影に見えつつ」云云、こは山かずらは、日かげかずらのことにて、影の枕詞に置けるなり。山かずら日かげとつづく意にて、十四の巻に、あしひきの山かずらかげと詠めるかげに同じ。十八の巻にも、かずらかげと有り、みなかげは日かげのかずらの事なり。然るを後の世に、この玉かずらを、山かずらの誤りなる事を知らずして、影と続きたるを、懸の意と心得たるは、ひがことなり。又十三の巻に、「斎串立て」云云「雲聚の玉蔭見ればともしも」、こはうずに垂れたる日かげのかずらなり。十六の巻に、「あしひきの玉かずらの児」とあるは、あしひきのとあれば、山なること論無し。即ち「玉久世の清き河原」云云と云う歌も、ならべる歌には、山かずらの児とあり。さて件の例どもによりて思えば、十一の巻に、山代の久世の河原なりけむを、山を玉に、能を清に誤り、代を脱せるにこそ。玉久世と云うことは、有るべくも覚えず。
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うひ山ぶみ・注[ラ]万葉集をよくまなぶべし上古のなれば、殊に古言古意をしるべき、第一の至宝也、然れどもその数多からざれば、ひろく考るに、ことたらざるを、万葉は、歌数いと多ければ、古言はをさをさもれたるなく、伝はりたる故に、これを第一に学べとは、師も教へられたる也、すべて神の道は、儒仏などの道の、善悪是非をこちたくさだせるやうなる理窟は、露ばかりもなく、たゞゆたかにおほらかに、雅たる物にて、歌のおもむきぞ、よくこれにかなへりける、さて此万葉集をよむに、今の本、誤字いと多く、訓もわろきことおほし、初学のともがら、そのこゝろえ有べし、みづからも古風の歌をまなびてよむべし、すべて万ヅの事、他のうへにて思ふと、みづからの事にて思ふとは、浅深の異なるものにて、他のうへの事は、いかほど深く思ふやうにても、みづからの事ほどふかくはしまぬ物なり、歌もさやうにて、古歌をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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