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玉勝間 / 十二の巻 飛鳥神社の御事

大和ノ國高市ノ郡、飛鳥ノ神社は、大社と申す中にも、殊にやむことなきゆゑよしのおはします御社なるを、宣長むかし若かりし程、吉野の花見に物せしをり、始めて詣でけるに、近きとし燒け給へりとて、いといとはかなげなるかり殿におはしましけるを。寛政十一年の春、きの國に物すとて、御前を過けるたよりに又まうでて見奉れば、昔見奉りしとは引かへて、御あらか御垣をはじめ奉りて、末末の社社まで、かたのごと建ととのひ給へる。こはおほやけより造り奉り給へりやと問ひしかば。いな、此わたり知ッ給ふ殿の、造ヲ奉り給へるなり、と云ふを聞くに、有がたくいと尊くおぼえて、猶えあらず、斯くはものしつ。

新字:大和ノ国高市ノ郡、飛鳥ノ神社は、大社と申す中にも、殊にやむことなきゆゑよしのおはします御社なるを、宣長むかし若かりし程、吉野の花見に物せしをり、始めて詣でけるに、近きとし焼け給へりとて、いといとはかなげなるかり殿におはしましけるを。寛政十一年の春、きの国に物すとて、御前を過けるたよりに又まうでて見奉れば、昔見奉りしとは引かへて、御あらか御垣をはじめ奉りて、末末の社社まで、かたのごと建ととのひ給へる。こはおほやけより造り奉り給へりやと問ひしかば。いな、此わたり知ッ給ふ殿の、造ヲ奉り給へるなり、と云ふを聞くに、有がたくいと尊くおぼえて、猶えあらず、斯くはものしつ。

書き下し

大和の国高市の郡、飛鳥の神社は、大社と申す中にも、殊にやんごとなきゆえよしのおわします御社なるを、宣長むかし若かりし程、吉野の花見に物せしおり、始めて詣でけるに、近きとし焼け給えりとて、いといとはかなげなるかり殿におわしましけるを。寛政十一年の春、紀の国に物すとて、御前を過ぎけるたよりにまたもうでて見奉れば、昔見奉りしとは引きかえて、御あらか御垣をはじめ奉りて、末々の社々まで、かたのごと建ちととのい給える。こはおおやけより造り奉り給えりやと問いしかば。いな、このわたり知り給う殿の、造り奉り給えるなり、と云うを聞くに、有りがたくいと尊くおぼえて、なおえあらず、かくはものしつ。

現代語訳

大和国高市郡の飛鳥神社は、大社と申し上げる中でも、とりわけ尊い由緒のある御社であるのに、宣長が昔若かったころ、吉野の花見に出かけた折に初めて参詣したところ、近年焼けてしまわれたとのことで、たいそう心もとない仮の殿におわしました。寛政十一年(1799)の春、紀伊国へ出かけるというので御前を通りかかったついでにまた参詣して拝見すると、昔拝見したのとは打って変わって、御本殿や御垣をはじめとして、末々の社々まで、しかるべき形に建ち整っておられた。「これは朝廷からお造り申し上げなさったのか」と尋ねたところ、「いいえ、このあたりを治めておられる殿様がお造り申し上げなさったのだ」と言うのを聞いて、ありがたく、たいそう尊く思われて、やはり黙っていられず、このように書いたのである。

解説

飛鳥坐神社の再建を喜んで書き留めた、十二の巻の結びの段である。宣長は若いころ吉野の花見の旅で初めて参詣したとき、社殿は焼けて粗末な仮殿のままであった。寛政十一年、紀州への旅の途中に再び詣でると、本殿も垣も末社までもきちんと建て直されていた。朝廷が造営したのかと尋ねると、この地を治める殿様が造ったのだという答え。宣長は「ありがたく尊く」思い、黙っていられずに書いたと結ぶ。この巻で宣長は、神社への敬意が薄れた世を嘆き、古代の朝廷が神社の修造を命じた勅まで引いてきた。その嘆きの後に、今の世にも神社を立派に建て直す領主がいることを知った喜びが、素直な言葉で記されている。

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