玉勝間 / 三の巻 飛鳥の宮宮
古、の飛鳥の宮宮の御跡、岡本ノ宮は、岡寺のふもと、淨御原ノ宮は、岡寺よりやや南の方、川原ノ宮は、川原寺のほとりなる小山、板葺ノ宮は、飛鳥川の東の畠中なりと、飛鳥ノ社司飛鳥氏の說なりとぞ。
新字:古、の飛鳥の宮宮の御跡、岡本ノ宮は、岡寺のふもと、浄御原ノ宮は、岡寺よりやや南の方、川原ノ宮は、川原寺のほとりなる小山、板葺ノ宮は、飛鳥川の東の畠中なりと、飛鳥ノ社司飛鳥氏の説なりとぞ。
書き下し
古の飛鳥の宮宮の御跡、岡本の宮は、岡寺のふもと、浄御原の宮は、岡寺よりやや南の方、川原の宮は、川原寺のほとりなる小山、板葺の宮は、飛鳥川の東の畠中なりと、飛鳥の社司飛鳥氏の説なりとぞ。
現代語訳
古の飛鳥の宮々の跡は、岡本宮は岡寺の麓、浄御原宮は岡寺から少し南の方、川原宮は川原寺のほとりの小山、板葺宮は飛鳥川の東の畑の中である、というのが飛鳥の神社の神職である飛鳥氏の説だということである。
解説
飛鳥時代の宮殿の跡について、飛鳥坐神社の神職を代々務める飛鳥氏の説を書き留めた短い段である。岡本宮は舒明天皇や斉明天皇、浄御原宮は天武天皇と持統天皇、川原宮は斉明天皇、板葺宮は皇極天皇の宮として日本書紀に見える。宣長の時代、これらの宮の跡はすでに地上から消え、所在は土地の伝えに頼るほかなかった。宣長は自分の説を立てず、土地の旧家の伝えとして出典を明らかにして記している。現代の発掘調査では、板蓋宮・岡本宮・浄御原宮などが同じ場所に重なって営まれていたことが分かってきており、この伝えとは異なる点も多い。それでも、誰の説かを添えて記録しておくことで、後の人が検証できるようになる。聞いた話の出どころを書くことの大切さを示す一段である。
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 飛鳥神社の御事大和の国高市の郡、飛鳥の神社は、大社と申す中にも、殊にやんごとなきゆえよしのおわします御社なるを、宣長むかし若かりし程、吉野の花見に物せしおり、始めて詣でけるに、近きとし焼け給えりとて、いといとはかなげなるかり殿におわしましけるを。寛政十一年の春、紀の国に物すとて、御前を過ぎけるたよりにまたもうでて見奉れば、昔見奉りしとは引きかえて、御あらか御垣をはじめ奉りて、末々の社々まで、かたのごと建ちととのい給える。こはおおやけより造り奉り給えりやと問いしかば。いな、このわたり知り給う殿の、造り奉り給えるなり、と云うを聞くに、有りがたくいと尊くおぼえて、なおえあらず、かくはものしつ。
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『玉勝間』六の巻 古き名どころを尋ぬる事ふるき神の社の、今は絶えたる、また絶えざれども、定かならず成りぬるなど、いずくにも多かるは、いと悲しきわざなり。神祇官の帳にのれるなどは、欠けてもさは有るまじきわざなるを、中頃の世の乱れに、天の下のよろずの事も、古の掟も、皆みだれに乱れ、絶え失せに絶え失せにたる、万ずにつけて、いともいともかなしきは、乱れ世のしわざなりけり。さるを今の御世は、古えにも稀なるまで、よく治まりて、いともめでたく、天の下栄えに栄ゆるままに、よろずに古をたずねて、絶えたるを起こし、おとろえたるを直し給う御世にし有れば、神の社どもは、殊に古に立ちかえりて、栄ゆべき時なりけり。しか有るにつけては、絶えたるは、跡をだに定かに尋ねまほしく、また今も有りながら、さだかならず、疑わしきをば、よく考え尋ねて、確かにそれと、定め知らまほしきわざになむ有りける。次には神の社ならぬも、古えに名あるところどころ、歌枕なども、今は定かならぬが多かるは、かかるめでたき時世にあたりて、尋ね置かまほしきわざなり。
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『玉勝間』十四の巻 神社の位階の事同じく天武天皇の御巻に、軍政既に訖りて、将軍等、この三神の教言を挙げて、これを奏す。即ち勅して三神の品を登げ進めて以て祠るとみえたる。品とは、位階を云えるか。もし然らばこれ、神社に位を授け奉り給うことの、物に見えたる始めと云うべし。されどこれは、必ずしも位階にはあらで、ただその社の班列をあげ給えるにも有るべし。三神の教言の事は、件の文の上に出でたり。
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