玉勝間 / 十二の巻 有智子内親王
同紀に、同年同月戊午、二品有智子内親王薨、內親王者、先太上天皇幸姫王氏所誕育也。頗涉史漢、兼善屬文。元爲賀茂齋院。弘仁十四年春二月天皇幸齋院花宴、俾文人賦春日山莊詩。各探勒韻、公主探得塘光行蒼、卽瀝筆日、寂寂幽莊水樹裏、仙輿一降一池塘、栖林孤鳥識春澤、隱瀾寒花見日光、泉聲近報初雷響、山色高晴暮雨行、從此更知恩顧渥、生涯何以答穹蒼。天皇歎之、授三品、于時年十七。是日天皇書懷賜公主日、忝以文章著邦家、莫將榮樂負煙霞、卽今永抱幽貞意、無事終須遺歲華、尋賜召文人料封百戶、天長十年叙二品、性貞潔、居于嵯峨西莊、薨時春秋四十一。
新字:同紀に、同年同月戊午、二品有智子内親王薨、内親王者、先太上天皇幸姫王氏所誕育也。頗渉史漢、兼善属文。元為賀茂斎院。弘仁十四年春二月天皇幸斎院花宴、俾文人賦春日山荘詩。各探勒韻、公主探得塘光行蒼、即瀝筆日、寂寂幽荘水樹裏、仙輿一降一池塘、栖林孤鳥識春沢、隠瀾寒花見日光、泉声近報初雷響、山色高晴暮雨行、従此更知恩顧渥、生涯何以答穹蒼。天皇嘆之、授三品、于時年十七。是日天皇書懐賜公主日、忝以文章著邦家、莫将栄楽負煙霞、即今永抱幽貞意、無事終須遺歳華、尋賜召文人料封百戸、天長十年叙二品、性貞潔、居于嵯峨西荘、薨時春秋四十一。
書き下し
同じ紀に、同じ年同じ月戊午、二品有智子内親王薨ず、内親王は、先太上天皇の幸姫王氏の誕育する所なり。頗る史漢に渉り、兼ねて善く文を属る。元賀茂の斎院と為る。弘仁十四年春二月天皇斎院の花宴に幸し、文人をして春日山荘の詩を賦せしむ。各韻を探り勒す、公主は塘・光・行・蒼を探り得て、即ち筆を瀝ぎて曰く、寂寂たる幽荘水樹の裏、仙輿一たび降る一池の塘、林に栖む孤鳥は春の沢を識り、瀾に隠るる寒花は日の光を見る、泉声近く報ず初雷の響き、山色高く晴る暮雨の行、此より更に知る恩顧の渥きを、生涯何を以てか穹蒼に答えん。天皇これを歎じ、三品を授く、時に年十七。この日天皇懐いを書して公主に賜いて曰く、忝くも文章を以て邦家に著る、栄楽を将て煙霞に負くこと莫れ、即今永く抱け幽貞の意、事無くして終に須らく歳華を遣るべし、尋いで文人料の封百戸を賜う、天長十年二品に叙す、性貞潔にして、嵯峨の西荘に居る、薨ずる時春秋四十一。
現代語訳
同じ紀(続日本後紀)に「同じ年の同じ月戊午、二品有智子内親王が薨じた。内親王は先太上天皇(嵯峨上皇)の寵姫、交野女王がお生みになった方である。史記・漢書にかなり通じ、あわせて文章をよく作った。もとは賀茂の斎院であった。弘仁十四年(823)春二月、天皇が斎院の花の宴に行幸され、文人たちに『春日山荘』の詩を作らせた。それぞれ韻字を探り取ったところ、公主(内親王)は塘・光・行・蒼の字を得て、すぐに筆を下ろして詠んだ。『ひっそりとした奥深い山荘は水と木々の中にあり、仙人の乗り物(天皇の輿)がひとたび池の堤に降り立たれた。林に棲む一羽の鳥は春の恵みを知り、波間に隠れる寒々とした花も日の光を見る。泉の音は近くで初雷の響きを告げ、山の色は高く晴れて夕べの雨が過ぎてゆく。これよりいっそう天恩の厚さを知った。生涯、何によってこの大空の恵みにお応えしようか』。天皇はこれに感嘆して三品を授けた。時に十七歳。この日、天皇は思いを書いて公主に賜った。『もったいなくも文章によって国に名を著した。栄華や楽しみのために、山水の暮らしに背いてはならない。今こそ永く奥ゆかしく清らかな心を抱き、無事のうちに歳月を送るがよい』。まもなく文人料として封戸百戸を賜った。天長十年(833)に二品に叙された。性質は貞潔で、嵯峨の西の山荘に住んだ。薨じたとき四十一歳であった」とある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』三の巻 選子内親王の御歌されど此みこのみの御とがにしも有らず、いともかしこく、神をば忘れ奉りて、ただひたぶるに、仏の教をとうとみ行うをのみ、いみしき事にはして、かかるすじを、かえりて心深くあわれなるわざに、なべて人も云い思う、世の中のならいなりしかばぞかし。そもそも此ひめみこは、世に大斎院と申して、円融天皇の御世、天延と云いし程より、後一条のみかどの、長元と云う頃まで、五御世にわたりて、御よわい七十に近きまで、斎におわしましければ、さばかりの御老の世まで、仏の道おこない給う事かなわぬを、心うく悲しくおぼしけむも、さる世のならいにては、御ことわりぞかし。さればさばかり仲子に御心よせて、西に向いて泣き給いし、此みこしも、あやしく長く平らかにつかうまつり給えりし事は、大神の御心にも、世の中のならいにおぼしゆるして、あわれとおぼしめしてにや有りけん。又それも、まがつひの神の、例のあやしき御心にや有りけん。
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『玉勝間』三の巻 選子内親王の御歌選子内親王、賀茂のいつきと聞こえける時に、西に向いて詠み給える、「思えども忌むとて云わぬ事なればそなたにむきて音をのみぞ泣く、詞花集に入れり。すべて伊勢賀茂の斎王の宮にては、いみしく仏を忌みて、そのすじの事は、詞に云うをだに、いましめられたる、御さだめなりき。然るに御国人は、昔より、たかきも賤しきも、かしこきも愚かなるも、おしなべて、仏の教を信ぜぬ人は、世に一人も無かりければ、いつきにい給うをば、罪深き事にして、歎き給えるならいなりき。されど神につかうまつり給う御心の、まめやかにおわせんには、その忌み嫌い給うすじをば、かけても思しよるべきわざならぬを、西に向いて、ねになき給うばかりなりしは、云わむかたなきまが事にぞ有りける。さては御かたちのかぎり、皇神のいつきにてはおわしまして、御心は、もはら極楽の阿弥陀の斎にこそおわしけれ。さるにても御心の内にこそは、おのずからさおぼす事も有らんにても、おおやけの重きいましめなれば、歌などに詠み顕わし給うべきに有らず、又たとい詠み出で給えりとも必ず人に語りなどはし給うまじきわざなるを、御はじともおぼさずや有りけん。
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『玉勝間』十三の巻 九条廃帝御子は、崩御ありし年に、法印性慶の女の腹に、姫宮一ところ生まれさせ給う。義子内親王と申す。弘長元年三月八日、御とし廿八にて、院号こうぶり給いて、和徳門院と申しき。
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『玉勝間』十三の巻 唐法に依べき詔書の事同紀に、承和九年、文章博士従三位菅原朝臣清公薨ず、その伝に、弘仁九年、詔書有り、天下の儀式、男女の衣服、皆唐法に依り、五位已上の位記、改めて漢様に従い、諸宮殿院堂門閣、皆新額を着け、又百官の舞踏を肄う、此の如き朝儀、並びに関説を得、と見えたる、この事国史には見えず。記略に、弘仁九年三月丙午、詔して曰く云云、その朝会の礼、及び常に取服する者、又卑の貴に逢いて跪く等、男女を論ぜず、改めて唐法に依れ。但し五位已上の礼服、諸の朝服の色、衛仗の服、皆旧例に縁りて、改張すべからずと有り。弘仁の帝は、殊に漢を好ませ給いしみかどにぞおわしましける。
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『玉勝間』十三の巻 東宮雅院文徳実録に、嘉祥三年三月己亥、仁明皇帝崩ず、時に皇太子云云、天子の神璽宝剣、符節鈴印等を献ず、須臾にして輦車に駕して東宮の雅院に移御す云云。四月戊午、帝雅院より中殿に移御す。三代実録に、貞観元年六月廿二日云云、東宮の雅院に於いて始めて法を修す、云云、七月云云、是の月雅院の桜樹華さく云云。同五年五月廿二日、天皇雅院に御し、神泉苑の御霊会を召し見る、舞童雅楽寮音楽を奏す。
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『玉勝間』十二の巻 光孝天皇の御世より歌の道又おこれる事同じ紀に、仁和元年冬十月壬子朔、皇帝紫宸殿に御し、宴を侍臣に賜う。左右近衛府遞いに音楽を奏し、日暮れて和琴を奏し和歌を作る、群臣具に酔い、歓を極めて罷む、禄を賜うこと各差有り。また同じ二年十月丙午朔、日これを蝕する有り。二日丁未、天皇紫宸殿に御し宴を侍臣に賜う。親王・太政大臣、及び参議已上、並びに殿の座に侍し、六府番上の簿を庭に奏し、左右近衛府、遞いに音楽を奏す。酣暢の後、参議右衛門督藤原朝臣諸葛に勅命して、和琴を弾かしめ、王公並びに歌を作り、天皇自ら歌いたまい、宴楽景を畢う。と見えたり。そもそも嵯峨の天皇もはらから詩をのみ好ませ給いしより、かかる御宴のおりなども、ただ詩をのみ作られて、歌のことは、絶えて聞えざりしに、光孝天皇の御世より、またかく歌を好ませ給いて、詩のかたは、衰えそめにたりき。
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