玉勝間 / 十二の巻 双ノ丘の東の墳に位を授けられし事
同紀に、同十四年冬十月癸巳朔辛亥、授雙丘東墳從五位下、此墳在雙丘東、天皇遊獵之時、駐於墳上、以爲四望地、故有此恩。
新字:同紀に、同十四年冬十月癸巳朔辛亥、授双丘東墳従五位下、此墳在双丘東、天皇遊猟之時、駐於墳上、以為四望地、故有此恩。
書き下し
同じ紀に、同じ十四年冬十月癸巳朔辛亥、双丘の東の墳に従五位下を授く、この墳は双丘の東に在り、天皇遊猟の時、墳上に駐まりて、以て四望の地と為す、故にこの恩有り。
現代語訳
同じ紀(続日本後紀)に、「同じく(承和)十四年(847)冬十月辛亥、双ヶ丘の東の古墳に従五位下を授けた。この古墳は双ヶ丘の東にあり、天皇が狩りをされた時にその上に留まって、四方を眺める場所とされた。それでこの恩典があった」とある。
解説
古墳に位階が授けられたという、珍しい記録を書き留めた段である。京都の双ヶ丘の東にある古墳に、仁明天皇が従五位下を授けた。理由は、天皇が狩りの折にその上に留まり、四方を見晴らす場所として気に入ったからだという。神社の神々に位階を授けることは古代によく行われたが、墳墓そのものに位を与えるのは異例である。その墳に眠る誰かを尊んだのか、見晴らしのよい丘そのものに感謝したのか、記事はそれ以上語らない。宣長も論評を加えず、珍しい事例として題に掲げるにとどめている。人ならぬものにも位を授けて敬意を表すという古代の感覚は、山や木や岩にも神を見た日本人の心に通じるものがある。景色を愛でた天皇の心が、一つの記録として千年以上残っていることも興味深い。
関連する章句
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『玉勝間』十一の巻 田舎の神社に高き位階を授らるる事同記に云わく、同五年九月廿九日、この日贈位宣下行わるるなり。(西宮左大臣高明公)備前国において勧請し奉る神と云云。件の社この間託宣有り、某村人に属きて、祟りを成さしめ給い候間、山科中将顕言朝臣に就きて、地下より申し請うる仁有り。奏聞を経て、勅許有りてこれを行わる、従一位を贈らるる者なり。夜に入りてその儀有り云云。これは贈位の例とはおぼえず。ただ神に位を授け給えるにこそ有れ。またすべての事のさま、古に違いて、近き世のさまなり。
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