玉勝間 / 二の巻 天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命
同記に、天皇我詔旨止、掛畏其山陵〓申賜ヘ止申久、公卿議奏久、明年波、天皇加御歳漸々、冠年近給布倍之、冠者成人之始女、盛禮乃嘉事奈リ、來正月乃吉日良辰〓、元服乎奉加天、人望可叶止奏せり、掛畏支山陵乃廣助依天、平々安ケク令果行給布倍之、故是以此狀を、官位姓名乎差使天、恐見恐見毛申賜波久止奏。寛仁元年十二月十九日。
新字:同記に、天皇我詔旨止、掛畏其山陵〓申賜ヘ止申久、公卿議奏久、明年波、天皇加御歳漸々、冠年近給布倍之、冠者成人之始女、盛礼乃嘉事奈リ、来正月乃吉日良辰〓、元服乎奉加天、人望可叶止奏せり、掛畏支山陵乃広助依天、平々安ケク令果行給布倍之、故是以此状を、官位姓名乎差使天、恐見恐見毛申賜波久止奏。寛仁元年十二月十九日。
書き下し
同記に、天皇が詔旨と、掛けまくも畏き其の山陵に〓申し賜えと申さく、公卿議り奏さく、明年は、天皇御歳を加え給い漸々、冠の年近くなり給うべし、冠は成人の始めにして、盛礼の嘉事なり、来る正月の吉日良辰に、元服を加え奉りて、人望に叶うべしと奏せり、掛けまくも畏き山陵の広き助けに依りて、平らけく安らけく果たし行わしめ給うべし、故に是を以て此の状を、官位姓名を差し使わして、恐み恐みも申し賜わくと奏す。寛仁元年十二月十九日。
現代語訳
同じ日記に、次の宣命がある。「天皇の詔旨として、口にするのも畏れ多いその山陵に申し上げよと申すことには、公卿たちが議して奏上するには、来年は天皇のお年も次第に加わり、冠をつける年が近くなられる。冠は成人の始めであり、盛大な礼のめでたい事である。来る正月の吉日良辰に元服の冠をお加え申し上げて、人々の望みにかなうようにしたい、と奏上した。畏れ多い山陵の広いお助けによって、平らかに安らかに執り行わせてくださるように。そこでこの趣を、官位姓名の者を使いに立てて、恐れ謹んで申し上げると奏する。寛仁元年(1017)十二月十九日」。
解説
関連する章句
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『玉勝間』七の巻 天皇御元服の時のことぶき同別記、久安六年正月四日、近衛天皇御元服の儀式の中に曰く、東に進みて御前に当たり北面し、壁代の外の畔に留まり立ち、磐折して祝詞を奏すらく、御酒これ厚く、御肴これ嘉し、赤花て敬い祭り賜わば、もろもろの神たち悦びたまい、遺の味を嘗め賜わば、御躰平らかに御坐して、天地の休き事を、日月と共に受け保ち賜い、手長の御世の、遠き御世に、貴く戴き重ね御坐せと申す、また御冠を加え奉るところに曰く、御前に当たり進み、壁代の外の畔に留まり立ち、(揖せず)磐折して奏す、祝詞、その詞に云う、掛けまくも畏き天皇が朝廷、今月の吉日に、御冠加え賜いて、盛りに美しき御負い人と成り賜いぬ、天つ神地つ祇相悦び、護り幸え奉り賜いて、御寿長く久しく、宝位動き無く御坐せと申す、と見えたり。この二つの祝詞、文いとつたなし。はじめなるは、殊に拙し。今仮字づけも何も、本のままにしるせるを、かなづきなど、後に写し誤れりと見ゆる所々も有れど、もとよりいと拙きさまなり。古言のかたちの、ほのぼのまじれるは、古きかたの有りしが、つぎつぎに崩れて、かく拙くは成れるなるべし。この頃はやく、古語はむげにすたれ果てて、知れる人も無かりしと見えたり。おくなるは、ことも無けれど、天皇の御事を、天皇が朝廷と有るは、いみしき誤りなり。古語に天皇が朝廷とは、朝廷をこそ申せれ、天皇を然申せる事無し。
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『玉勝間』二の巻 賀茂行幸の時の宣命同記に、寛仁元年十一月廿五日、賀茂行幸の時の宣命。天皇が詔旨と、掛けまくも畏き賀茂皇大神の広前に、恐み恐みも申し賜えと申さく、年来の間、祈り願わしめ給う事在り、然も験〓冥助相通いて、其の験昭然なり、恐む由を報賽せしめ給わんとなも所念し行して〓、故に是を以て吉日良辰を撰び定めて、金銀の御幣、錦の蓋・餝劔・平劔・唐組・平〓、御弓・御箭・御鉾・御鏡、并びに種種の神宝、音楽・走馬・東遊等を相並べて、唱え進りて行幸し給う、また前年に愛宕郡一郡ながら寄せ奉るべき由を祈り申さしめ給いき、而るに件の郡内に在る所、或いは帝王の城都、或いは明神の領地、是れ万代相伝の処なり、曾て一人自由の地に非ず、仍りて南は皇城の北の大路の同じき末を限りて、東は郡界に至るまで、西は大宮の東の大路の同じき末を限りて、北は郡界に至るまで、寄せ奉り給う、但し此の内に凌室・蔵氷の邑有り、是れまた百王の職事限り有りて一時に之を改易し致し難し、縦い神郡の内に在りとも此の一邑を除くべし、抑も上下の御社、件の郡を平均に分かち奉り給う、然れども田圃〓〓の数、忽ちに以て決し難し、追って後日を以て、各界い奉るべし、皇大神此の状を、平らけく安らけく聞こし食して、いよいよ感応を垂れて、天皇が朝廷を、宝位動き無く、常盤堅盤に、夜の守り日の守りに、護り幸え奉り給い、四海〓平らかに、万民安楽に、水旱飢疫の難を、未兆に払い退け、農圃蚕養の業を、事毎に豊かに登らしめ、唐堯と徳を同じくし、漢文に名を比べて、叡慮の尅念違い無く、必ず然も護り恵み〓奉り給えと、恐み恐みも申し賜わくと申す、辞別きて申し賜わく〓〓、后闡の月長く明らかに、母儀の風いよいよ芳しくて、皇大后も同じく共に参り給えり、冥助空しからず、感応暗に至りて、万歳千秋まで、夜の守り日の守りに護り幸え奉り給えと、恐み恐みも申し賜わくと申す、寛仁元年十一月。
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『玉勝間』七の巻 御即位親王代礼服実躬卿記(一名先人記)に云う、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴れ風静かなり、今日天皇(春秋十一歳)御即位、(官庁なり、)実躬右の親王代に定めらるるの間、巳の剋礼服を着る、先ず烏帽子を着て、理髪す、(小烏帽子なり、随身の烏帽子のごときなり、)次に大口を着る、(例の大口なり、)次に襪を着る、(例の襪二重、上に赤地の錦の襪を着るなり、休組有るべきか、或いはまた之無し、)次に単衣を着る、(例の単、袖を解き放つ、強ちに見えざるの上、小袖の寸法大小の間、無要たるに依るなり、)次に表袴を着る(唐綾を用うべきか、近代絶えてこの儀無し、仍りて例の縮線綾の表袴を着用する所なり、左の親王代もまたかくのごとし、表袴・大口等の腰、恒のごとく之を結ぶ、)次に裳を着る、(深色の顕文紗、表袴より三寸引き上げて之を着る、)次に小袖を着る、(黒櫨、裳より三寸引き上げて之を着る、下帯を以て之を結ぶ、)次に大袖を着る、(麹塵の御綾、織文は雲・唐鳥の丸、小袖より三寸引き上げて之を着る、下帯を以てまた之を結ぶ、大袖の頸紙半ばに当てて之を折る、承久の故大納言の着用かくのごとし、)次に綬を結ぶ、(平緒のごとく前に垂る、総の末は大袖の末の上程に至る、平緒に綬を垂るるの間かくのごとし、経俊は左の腰に垂れ、聊か前方に寄す、総の末は小袖の末に至る、)次に玉佩を付く、(右の腰に付け、下帯に付けて結び付くるがごとし、その末の綴は未だ押し交えず、)次に剣を帯ぶ、(紫檀の平緒、前に垂るる綬少し長く之を垂る、石見より一寸余出だす、後は平緒の下より一寸余出だし見す、)次に玉冠を着る、(冠は頭に合わせて之を調う、仍りて燈心の輪頗る無要の間之を入れず、紫の組緒を耳の後より頸の下に結ぶ、また小さき烏帽子の風口を構う、これ今の要なり、承久の故大納言は里亭より之を着る、)次に笏を取る(須らく牙笏を持つべし、次いでにて持つべからざるの間、置物を以て之に化す、)扇、(紫の扇なり、用意の為に之を懐中す、)已上玉佩の外悉く之を新調すと見ゆ、写し誤れるもじ有りと見えて、読みがたき所々有り。
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『玉勝間』一の巻 天皇礼服御冠のさだ同記に云う、仁治三年三月十日、御即位の礼服の御覧、去る八日なり、而るに御冠破損し、実無し、今日内々なお沙汰有るべしと云う、御冠堅固に実無し、金銅・珠玉の類は、先年盗人の為に盗み取らるるか、一切見えず、只御冠の羅少々許り相残り、また珠玉少分落ち残る、其の正躰に及ばざるの由、云々、仍て其の由を申す、此の上は治め難き事なり、東大寺の宝蔵に天子の御冠二額相残るか、若し模すべくば、召し出さるべきか、年序久しく隔たり慥かに覚悟せず、然れども大旨は相似たるかの由覚ゆる所なり、云々、但し佐保朝廷(聖武か)の礼冠の図、東大寺に御納めの御冠の納物か、同じく之を下さるるの間、燈下に於いて之を見る、イトモ覚悟せざるの由申す所なり、前内府帰り出でて仰せて云う、東大寺の御冠の事、思し食し寄らざるの処、今申さしむる旨、尤も感じ思し食す所なり、十四日、伝え聞く、一昨日右少弁時継拝賀を申し、即ち東大寺に向かうと云う、今朝已に上洛すと云う、御冠到来す、但し太上天皇の御冠、并びに前帝の御冠、内裏に取り入れらるべからざるか、云々、就中太上天皇の御冠を以て本様と為し、已に入道相国の許に遣わさると云う、此の条殊に驚き聞く、云々、残る所の御冠、また数頭有り、之を取り出して見給わる、また礼服の御裳の事仰せ出さる、即ち之を取り出さる、残る所の御裳、内蔵寮を召し遣わし、暫く祗候して見るべきの由仰せらる、然れども蔵人佐云う、今に於いては、女帝の礼服、前皇后・太子の礼服、童帝はまた短小の礼服許りなり、見るに及ばざるかと云う、十七日、云々御冠已に出で来たり了んぬ、只今〓せしむと云う。
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『玉勝間』四の巻 伏見天皇御即位の次第その後大しょうじのひんがしに、ひらしきの御座に、うげん二帖のうえに、御しとねよそいて、このうえにてわきの御膳などまいらす。御ばいぜんは女房、やくそうの女房は、こ上臈、あした所の北むきに、北にさぶらう。ぶぎょうのしきじを出だして、高御座の事はぐしたるかと、おおせくださるれば、しきじかえりまいりて、ぐしたるよし奏す。ひらしきの御座にて、御束帯ときくつろげさせおわしまして、玉の御かぶりめさる。らいふくめされて、大床子に主上わたらせおわします。玉の御かぶりに、あけのおをつく。あけの御ほうに、左右の御かたは、月と日とを出だし、御なおしには、北斗七星をあらわしたてまつる。御むね御袖には、竜ののぼりたるをぬいたり、あられじの御うえのはかまのうえに、らいふくの御もを召す。そのうえに御大そでの御ほうを召す。御くびがみ御まえもなり。そのうえにたかくびの御小袖の御ほうを召す。このいろいろの御もんは、御小袖の御ほうにあらわして、うえに召したり。あかじの錦の御しとうず、はながたのうらの御くつ、あかじのにしきにてつつみたり。御こしには御じゅとて、ひらおのしろきを引かせ給いたり。
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『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞小右記の、長和五年のところに云わく、御即位の後、天下の諸神に奉幣する祝詞。天皇が詔旨と、皇神等の広前に、称辞言え奉り申し給わく、高天原に神留まり坐す、皇親神漏伎神漏美の命以ちて、事寄さし給える、豊葦原の瑞穂の国の、天つ日嗣の高御座の次次、去る四月廿八日より食国天下の政を聞こし食すに依りて、その状を申し給うと、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差し使わして、礼代の幣帛を捧げ持たしめ奉り給う、天皇が御命を、申し給わくと申す。今案ずるに、件の文は祝詞なり、宣命に非ず、とあり。称辞言奉申給は、言の字は竟の誤りなるべし。言の字あまりて、竟と云うことたらざればなり。また申と云う言もあまれり、奉申かとも思えど、それも古には例なき事なり。さてまた次次も聞こえず、次隨隨など有りけむが、字の落ちたるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのわで、ことわり聞こえがたき事もおおかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなおざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。
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