玉勝間 / 十二の巻 来と云ふ言に二くさのはたらきある事
かくて今の世の、歌詠む人など、歌には、さすがに古へのままに、初めのはたらきにのみ詠めども、文には、多く後のかたを用ひて書はいかにぞや。たとへば、人のきてと云ふべきを、人のきたりてと云ひ、こむと云ひしと云ふべきを、きたらむと云ひしと云ふ類ひなり。こは思ふに、初メの活用の方は、今の世の俗語につかふ故に、物はかなく聞え、後の方ぞ、物よむに用ふる故に、ものものしく、正しきやうに聞ゆるから、そを善しと心得てなめり。されどそは中中に惡ろし。古への雅文に、後のはたらきを用ひたる事は、をさをさ無きをば、などて考へざるらむ。
新字:かくて今の世の、歌詠む人など、歌には、さすがに古へのままに、初めのはたらきにのみ詠めども、文には、多く後のかたを用ひて書はいかにぞや。たとへば、人のきてと云ふべきを、人のきたりてと云ひ、こむと云ひしと云ふべきを、きたらむと云ひしと云ふ類ひなり。こは思ふに、初メの活用の方は、今の世の俗語につかふ故に、物はかなく聞え、後の方ぞ、物よむに用ふる故に、ものものしく、正しきやうに聞ゆるから、そを善しと心得てなめり。されどそは中中に悪ろし。古への雅文に、後のはたらきを用ひたる事は、をさをさ無きをば、などて考へざるらむ。
書き下し
かくて今の世の、歌詠む人など、歌には、さすがに古えのままに、初めのはたらきにのみ詠めども、文には、多く後のかたを用いて書くはいかにぞや。たとえば、人のきてと云うべきを、人のきたりてと云い、こむと云いしと云うべきを、きたらむと云いしと云う類いなり。こは思うに、初めの活用の方は、今の世の俗語につかう故に、物はかなく聞え、後の方ぞ、物よむに用うる故に、ものものしく、正しきように聞ゆるから、そを善しと心得てなめり。されどそはなかなかに悪ろし。古えの雅文に、後のはたらきを用いたる事は、おさおさ無きをば、などて考えざるらむ。
現代語訳
こうして今の世の歌を詠む人などが、歌にはさすがに古えのままに初めの活用だけで詠むけれども、文章には多く後の方を用いて書くのはどうしたことか。たとえば「人のきて」と言うべきところを「人のきたりて」と言い、「こむと言いし」と言うべきところを「きたらむと言いし」と言う類いである。これは思うに、初めの活用の方は今の世の俗語に使うので軽々しく聞こえ、後の方は書物を読むのに用いるので重々しく正しいように聞こえるから、それを良いと心得ているのであろう。けれどもそれはかえって悪い。古えの雅文に後の活用を用いたことはほとんど無いのを、どうして考えないのだろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 来と云ふ言に二くさのはたらきある事来の字を書く言に、二種の活用あり。一つには、き、く、くる、こ とはたらき、二つには、きたり、きたる、きたれ とはたらくこれなり。この二くさを合わせて云わば、き と きたり と同じ。たとえば きて と云うと、きたりて と云うと、同じき類いなり。く また くる は、きたる と同じく、こ と きたれ と同じく、また こむ と きたらむ と同じく、こず と きたらず と同じ。またはじめの活用にて、きたり、きたる と云うこと有り、そは来て有りの切まりたるなれば、後の活用にて云えば、きたれり、きたれる、きたりたり、きたりたる と云うにあたれり。そもそもかくの如く、二くさのはたらき有る中に、古は、歌にもただの詞にも、ただ初めの き く などの活用の方をのみ、常に用いて、後の きたり、きたる などの方を用いたる事は、いといと稀れなりき。今の世の語も、もはら初めの方のみにて後の方を用いることなし。然るを如何なる故にか、漢文をよむには、昔より、後のはたらきの方をのみ用い、また今の世の語も、口に云うは、初めの方のみなるに、物に書き読むには俗文といえども、必ず後の方を用うるは、からぶみよみよりうつれる習いなるべし。
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