玉勝間 / 十二の巻 来と云ふ言に二くさのはたらきある事
來ノ字を書言に、二種の活用あり。一ッには、伎、久、久流、許とはたらき、二ッには、伎多理、伎多流、伎多禮とはたらく是れなり。此二くさを合せて云はば、伎と伎多理と同じ。たとへばきてと云ふと、きたりてと云ふと、同じき類ひなり。久又久流は、伎多流と同じく、許と伎多禮と同ぐ(〇くの誤か)又許牟と伎多良牟と同く、許受と伎多良受と同じ。又はじめの活用にて、伎多理、伎多流と云ふこと有リ、そは來而有の切まりたるなれば、後の活用にて云へば、伎多禮理、伎多禮流、伎多理多理、伎多理多流と云ふにあたれり。そもそも斯くの如く、二くさのはたらき有る中に、古、は、歌にも唯だの詞にも、ただ初ノの伎久などの活用の方をのみ、常に用ひて、後の伎多理、伎多流などの方を用ひたる事は、いといと稀れなりき。今の世の語も、もはら初メの方のみにて後の方を用ることなし。然るを如何なる故にか、漢文をよむには、昔より、後のはたらきの方をのみ用ひ、又今の世の語も、口に云ふは、初めの方のみなるに、物に書〓讀〓には俗文といへども、必〓後の方を用ふるは、からぶみよみよりうつれる習ひなるべし。
新字:来ノ字を書言に、二種の活用あり。一ッには、伎、久、久流、許とはたらき、二ッには、伎多理、伎多流、伎多礼とはたらく是れなり。此二くさを合せて云はば、伎と伎多理と同じ。たとへばきてと云ふと、きたりてと云ふと、同じき類ひなり。久又久流は、伎多流と同じく、許と伎多礼と同ぐ(〇くの誤か)又許牟と伎多良牟と同く、許受と伎多良受と同じ。又はじめの活用にて、伎多理、伎多流と云ふこと有リ、そは来而有の切まりたるなれば、後の活用にて云へば、伎多礼理、伎多礼流、伎多理多理、伎多理多流と云ふにあたれり。そもそも斯くの如く、二くさのはたらき有る中に、古、は、歌にも唯だの詞にも、ただ初ノの伎久などの活用の方をのみ、常に用ひて、後の伎多理、伎多流などの方を用ひたる事は、いといと稀れなりき。今の世の語も、もはら初メの方のみにて後の方を用ることなし。然るを如何なる故にか、漢文をよむには、昔より、後のはたらきの方をのみ用ひ、又今の世の語も、口に云ふは、初めの方のみなるに、物に書〓読〓には俗文といへども、必〓後の方を用ふるは、からぶみよみよりうつれる習ひなるべし。
書き下し
来の字を書く言に、二種の活用あり。一つには、き、く、くる、こ とはたらき、二つには、きたり、きたる、きたれ とはたらくこれなり。この二くさを合わせて云わば、き と きたり と同じ。たとえば きて と云うと、きたりて と云うと、同じき類いなり。く また くる は、きたる と同じく、こ と きたれ と同じく、また こむ と きたらむ と同じく、こず と きたらず と同じ。またはじめの活用にて、きたり、きたる と云うこと有り、そは来て有りの切まりたるなれば、後の活用にて云えば、きたれり、きたれる、きたりたり、きたりたる と云うにあたれり。そもそもかくの如く、二くさのはたらき有る中に、古は、歌にもただの詞にも、ただ初めの き く などの活用の方をのみ、常に用いて、後の きたり、きたる などの方を用いたる事は、いといと稀れなりき。今の世の語も、もはら初めの方のみにて後の方を用いることなし。然るを如何なる故にか、漢文をよむには、昔より、後のはたらきの方をのみ用い、また今の世の語も、口に云うは、初めの方のみなるに、物に書き読むには俗文といえども、必ず後の方を用うるは、からぶみよみよりうつれる習いなるべし。
現代語訳
「来」の字を書く言葉には、二種類の活用がある。一つは「き・く・くる・こ」と活用し、二つには「きたり・きたる・きたれ」と活用する、これである。この二種を合わせて言えば、「き」と「きたり」は同じである。たとえば「きて」と言うのと「きたりて」と言うのが同じである類いである。「く」また「くる」は「きたる」と同じで、「こ」は「きたれ」と同じ、また「こむ」と「きたらむ」は同じで、「こず」と「きたらず」は同じである。また初めの活用にも「きたり」「きたる」と言うことがあるが、それは「来て有り」が縮まったものなので、後の活用で言えば「きたれり」「きたれる」「きたりたり」「きたりたる」と言うのにあたる。そもそもこのように二種の活用がある中で、昔は歌にも普通の言葉にも、ただ初めの「き・く」などの活用の方だけを常に用いて、後の「きたり・きたる」などの方を用いたことは、たいへん稀であった。今の世の言葉も、もっぱら初めの方だけで、後の方を用いることはない。それなのにどういうわけか、漢文を読むには昔から後の活用の方ばかりを用い、また今の世の言葉も口で言うのは初めの方だけなのに、物に書いたり読んだりするには、俗な文であっても必ず後の方を用いるのは、漢籍の読み方から移った習いであろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 来と云ふ言に二くさのはたらきある事かくて今の世の、歌詠む人など、歌には、さすがに古えのままに、初めのはたらきにのみ詠めども、文には、多く後のかたを用いて書くはいかにぞや。たとえば、人のきてと云うべきを、人のきたりてと云い、こむと云いしと云うべきを、きたらむと云いしと云う類いなり。こは思うに、初めの活用の方は、今の世の俗語につかう故に、物はかなく聞え、後の方ぞ、物よむに用うる故に、ものものしく、正しきように聞ゆるから、そを善しと心得てなめり。されどそはなかなかに悪ろし。古えの雅文に、後のはたらきを用いたる事は、おさおさ無きをば、などて考えざるらむ。
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『玉勝間』十二の巻 第五の音にはたらく言、得のはたらきもろもろの用言、第一の音より第四の音までに活きて、第五の音にはたらくは無きを、来の、ことも活くのみ、第五の音なるは、いと珍らしき事なり。また、もろもろの言の中に、あ行の音にて活くは無きに、得のみ、あの行なる、うえと活くは、これもまたいと珍らし。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事歌など、またさらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云うたぐいの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書く事なれども、然か書きては、あるはとも、あらばとも読まれ、その外もそのじょうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、読み誤りて、写すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、仮字にもかきなす事有り。さればかくたがいに読みまがうべき言は、みな仮字に書くべきわざなり。また霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などように云うを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは悪ろし。用言に云う時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などように、はたらく文字をそえて書くべし。すべてかく体と用とにつかう詞は、用の時は、はたらく文字を添えて書かざれば、まぎるること有るなり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐいなり。またもみじばと云うに、ただ紅葉とのみ書きては、もみじとのみ云うと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有るまじき書きざまなり、もみじ葉と書くべきなり。葉をば真字に書くべし、これをもともに仮字に書きては、テニヲハのハにまぎるればなり。
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』十三の巻 同集に必みけりけると云ふべきところに在ノ字を書る事同集に、必ずケリ、ケルと云うべき処に、在の字を書ける例、七の巻に、君がため云云沾れにける哉、十の巻に、誰が苑の云云咲きにけるかも云云、また零る雪云云月経にける、十一の巻に、世の中云云猶恋いにける、また石すら尚云云後悔いにける、また行き行き云云沾れにける哉、また是の川云云乗りにけるかも。これらの在の字、来の誤りと云う人もあれど、かくあまた例あれば、然は云いがたし。又強いて皆、ニタルとも訓むべけれども、猶ケル、ケリならでは、穏やかならぬところなり。又同巻に、大土云云恋いにける、また袖振る云云隠れにける、これらも、アリ、タリは読み付けて在の字は、ケル、ケリなり。そもそもケル、ケリに、この字を書ける事、いかなる由にか、いまだ考え得ず。つねに来の字を書くは、来而在を、古言に祁理と云う故に、それを借りたるものなり。こは事のついでに云うなり。
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『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
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