玉勝間 / 十二の巻 伊勢大神宮司仏事を行ひて見任を解れし事
同書に、弘仁七年六月丙辰、伊勢大神宮司從七位下大中臣朝臣〓持、有犯穢井行佛事、神祇官ト之、有祟、科大祓、解見任と見えたり。
新字:同書に、弘仁七年六月丙辰、伊勢大神宮司従七位下大中臣朝臣〓持、有犯穢井行仏事、神祇官ト之、有祟、科大祓、解見任と見えたり。
書き下し
同じ書に、弘仁七年六月丙辰、伊勢大神宮司従七位下大中臣朝臣〓持、穢を犯し并びに仏事を行う有り、神祇官これをトするに、祟り有り、大祓を科し、見任を解く、と見えたり。
現代語訳
同じ書(類聚国史)に「弘仁七年(816)六月丙辰、伊勢大神宮司の従七位下大中臣朝臣〓持が、穢れを犯し、また仏事を行ったことがあった。神祇官がこれを占ったところ祟りがあると出たので、大祓を科し、現職を解いた」と見えている。
解説
伊勢神宮の宮司が仏事を行ったために職を解かれたという、平安初期の記録を書き留めた段である。伊勢神宮は古くから仏教を忌むことが特に厳しく、僧を「髪長」、経を「染紙」と言い換える忌み言葉があったほどである。弘仁七年、大神宮司の大中臣某が穢れを犯し、仏事を営んだため、神祇官が占うと祟りが出た。そこで大祓を科して罷免したという。宣長は論評を加えていないが、前後の段で神仏習合を嘆いているのと合わせて読めば、その意図は明らかである。古代の朝廷は、神の奉仕と仏事とをはっきり分け、それを犯した者を処分するほど神事の清浄を重んじていた。後世に神と仏が混じり合う以前の、古えの正しい姿の証拠として、宣長はこの記録を拾ったのである。
関連する章句
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『玉勝間』十四の巻 伊勢大神宮寺続紀に、宝亀三年八月、度会の神宮寺を飯高郡の度瀬の山房に徙す、また同じく十一年二月、神祇官言す、伊勢大神宮寺、先に祟り有るが為に、他処に遷し建つ、而るに今神郡に近くして、その祟り未だ止まず、飯野郡を除くの外、便地に移し造らんとすといえば、これを許す。
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『玉勝間』七の巻 伊勢ノ大御神の仏をきらひ給ふ事台記に、天養二年三月七日、左馬権頭顕定来たりて云う、左大将(雅定)伊勢勅使の精進の間、他所に渡ると雖も、衣裳雑具等、なお中院の第に在り、仍りて仏経等、家中に置かず、而る間中院の寝殿に、煙有り、(件の煙屋上に見ゆ、)隣里驚きて、放火の由を存じ、驚きて天井を放ちて之を見るに、絵像の仏五躰、色旗等有り、件の物を門外に出だすの後、煙散じ尽く。
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