玉勝間 / 十四の巻 伊勢大神宮寺
續紀に、寶龜三年八月、徙度會神宮寺於飯髙郡度瀨山房、また同十一年二月、神祇官言、伊勢大神宮寺、先爲有祟、遷建他處、而今近神郡、其祟未止、除飯野郡之外、移造便地者、許之。
新字:続紀に、宝亀三年八月、徙度会神宮寺於飯高郡度瀨山房、また同十一年二月、神祇官言、伊勢大神宮寺、先為有祟、遷建他処、而今近神郡、其祟未止、除飯野郡之外、移造便地者、許之。
書き下し
続紀に、宝亀三年八月、度会の神宮寺を飯高郡の度瀬の山房に徙す、また同じく十一年二月、神祇官言す、伊勢大神宮寺、先に祟り有るが為に、他処に遷し建つ、而るに今神郡に近くして、その祟り未だ止まず、飯野郡を除くの外、便地に移し造らんとすといえば、これを許す。
現代語訳
『続日本紀』に、「宝亀三年八月、度会の神宮寺を飯高郡の度瀬の山房に移した」とあり、また「同十一年二月、神祇官が申し上げた。『伊勢大神宮寺は、先に祟りがあったため、他の所に移し建てました。ところが今もなお神郡に近いので、その祟りがまだ止みません。飯野郡以外の、都合のよい土地に移して造りたいと思います』と申したので、これを許した」とある。
解説
伊勢神宮のそばに置かれた神宮寺が、神の祟りを理由に二度も移された記録を抜き出した段である。奈良時代には、神は仏法によって救われる存在だとする神仏習合の考えから、各地の有力な神社に神宮寺が建てられた。伊勢にも神宮寺が置かれたが、宝亀三年に神の祟りがあるとして度会郡から飯高郡へ移され、それでも祟りが止まないとして、宝亀十一年に神郡から離れた地へ再び移されている。宣長は評を加えずに記事だけを写しているが、皇祖神を祭る伊勢の神が仏の寺を近くに置くことを嫌ったと読める記事を並べたこと自体に、仏教を神道から切り離そうとする宣長の立場がにじむ。伊勢神宮が仏教を忌む伝統は、斎宮の忌み言葉で仏を「中子」、僧を「髪長」と言い換えたことにも表れている。
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 伊勢大神宮司仏事を行ひて見任を解れし事同じ書に、弘仁七年六月丙辰、伊勢大神宮司従七位下大中臣朝臣〓持、穢を犯し并びに仏事を行う有り、神祇官これをトするに、祟り有り、大祓を科し、見任を解く、と見えたり。
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『玉勝間』七の巻 伊勢ノ大御神の仏をきらひ給ふ事台記に、天養二年三月七日、左馬権頭顕定来たりて云う、左大将(雅定)伊勢勅使の精進の間、他所に渡ると雖も、衣裳雑具等、なお中院の第に在り、仍りて仏経等、家中に置かず、而る間中院の寝殿に、煙有り、(件の煙屋上に見ゆ、)隣里驚きて、放火の由を存じ、驚きて天井を放ちて之を見るに、絵像の仏五躰、色旗等有り、件の物を門外に出だすの後、煙散じ尽く。
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