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玉勝間 / 十二の巻 茶の事

類聚國史に、弘仁六年夏四月癸亥、幸近江國滋賀韓崎、便過崇福寺、大僧都永忠、護命法師等、率衆僧、奉迎於門外、皇帝降輿、升堂禮佛、更過梵釋寺、停輿賦詩、皇太弟及群臣、奉和者衆、大僧都永忠手自煎茶奉御、施御被、卽御船泛湖、國司奏風俗歌〓、五位以上井掾以下、賜衣被、史生以下郡司以上、賜綿有差、また同年六月壬寅、令畿内井近江丹波播磨等國、殖茶每年献之とある、これ茶の事の、見えたるはじめなり。

新字:類聚国史に、弘仁六年夏四月癸亥、幸近江国滋賀韓崎、便過崇福寺、大僧都永忠、護命法師等、率衆僧、奉迎於門外、皇帝降輿、升堂礼仏、更過梵釈寺、停輿賦詩、皇太弟及群臣、奉和者衆、大僧都永忠手自煎茶奉御、施御被、即御船泛湖、国司奏風俗歌〓、五位以上井掾以下、賜衣被、史生以下郡司以上、賜綿有差、また同年六月壬寅、令畿内井近江丹波播磨等国、殖茶毎年献之とある、これ茶の事の、見えたるはじめなり。

書き下し

類聚国史に、弘仁六年夏四月癸亥、近江の国滋賀の韓崎に幸す、便ち崇福寺に過ぎる、大僧都永忠・護命法師等、衆僧を率いて、門外に奉迎す、皇帝輿を降り、堂に升りて仏を礼す、更に梵釈寺に過ぎり、輿を停めて詩を賦す、皇太弟及び群臣、和し奉る者衆し、大僧都永忠手自ら茶を煎じて御に奉る、御被を施す、即ち御船湖に泛ぶ、国司風俗歌舞を奏す、五位以上并びに掾以下に、衣被を賜う、史生以下郡司以上に、綿を賜うこと差有り、また同じ年六月壬寅、畿内并びに近江・丹波・播磨等の国をして、茶を殖えて毎年これを献ぜしむ、とある、これ茶の事の、見えたるはじめなり。

現代語訳

『類聚国史』に「弘仁六年(815)夏四月癸亥、(嵯峨天皇が)近江国滋賀の韓崎に行幸され、そのついでに崇福寺に立ち寄られた。大僧都永忠・護命法師らが多くの僧を率いて門外にお迎えした。天皇は輿を降り、堂に上って仏を礼拝された。さらに梵釈寺に立ち寄り、輿を停めて詩を作られた。皇太弟と群臣で唱和する者が多かった。大僧都永忠が自ら手で茶を煎じて差し上げた。(天皇は)御衣を施された。そこで御船を湖に浮かべ、国司が土地の歌舞を奏した。五位以上と掾以下に衣を賜り、史生以下郡司以上には身分に応じて綿を賜った」とあり、また同じ年の六月壬寅に「畿内と近江・丹波・播磨などの国に茶を植えさせ、毎年これを献上させた」とある。これが茶のことが見える始めである。

解説

日本で茶のことが記録に見える最初を、『類聚国史』の嵯峨天皇の記事から示した段である。弘仁六年、嵯峨天皇が近江の韓崎に行幸した折、梵釈寺で大僧都永忠が自ら茶を煎じて献じた。永忠は唐に長く留学して帰国した僧で、唐の喫茶の風を身につけていた。同じ年には畿内や近江・丹波・播磨に茶を植えさせ、毎年献上させる命が出ている。宣長は論評を加えず、史書の記事をそのまま写して「これ茶のことの見えたる始め」とだけ記す。茶の湯が栄西や村田珠光、千利休の名とともに語られる宣長の時代にあって、その始まりが平安初期の宮廷と唐帰りの僧にあることを示したのである。身近な嗜好品にも、いつ、誰が、どのように伝えたかという確かな始まりがある。

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