玉勝間 / 五の巻 はらめる女神の社にまゐる事
大神宮雜事記に、弘仁四年九月十六日、豐受ノ宮の大内人、神主眞房が妻、かの宮に詣て、玉垣の下にして、產たりける穢によりて、勅使たちなどして、眞房夫婦には、大ノ祓をおほせたりし事見えたり。それよりして、はらめる女、鳥居の内に參入る事を禁ぜらると有、然ればそれより前には、腹妊るほども、神の社にまゐる事、忌ざりしにこそ。
新字:大神宮雑事記に、弘仁四年九月十六日、豊受ノ宮の大内人、神主真房が妻、かの宮に詣て、玉垣の下にして、産たりける穢によりて、勅使たちなどして、真房夫婦には、大ノ祓をおほせたりし事見えたり。それよりして、はらめる女、鳥居の内に参入る事を禁ぜらると有、然ればそれより前には、腹妊るほども、神の社にまゐる事、忌ざりしにこそ。
書き下し
大神宮雑事記に、弘仁四年九月十六日、豊受の宮の大内人、神主真房が妻、かの宮に詣でて、玉垣の下にして、産みたりける穢れによりて、勅使たちなどして、真房夫婦には、大祓をおおせたりし事見えたり。それよりして、はらめる女、鳥居の内に参り入る事を禁ぜらると有り、然ればそれより前には、腹妊めるほども、神の社にまいる事、忌まざりしにこそ。
現代語訳
『大神宮雑事記』に、弘仁四年(813)九月十六日、豊受宮(外宮)の大内人である神主真房の妻が、その宮に参って、玉垣の下で出産してしまった穢れによって、勅使が立てられるなどして、真房夫婦には大祓を命じられたことが見える。それ以来、身ごもった女が鳥居の内に参り入ることを禁じられた、とある。そうであれば、それより前には、身ごもっている間でも神の社に参ることを忌まなかったのであろう。
解説
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 大神宮に諸人のまうづる事同じ書に、承平四年九月の御祭云云、参宮人千万、貴賤を論ぜず云云、と有るを見れば、その頃もかかりしなり。そもそも大神宮には、私の幣を奉ることは、禁制なりしかども、詣ずる事は、なべて苦しからざりしにや。
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『玉勝間』十二の巻 伊勢大神宮司仏事を行ひて見任を解れし事同じ書に、弘仁七年六月丙辰、伊勢大神宮司従七位下大中臣朝臣〓持、穢を犯し并びに仏事を行う有り、神祇官これをトするに、祟り有り、大祓を科し、見任を解く、と見えたり。
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『玉勝間』十四の巻 伊勢大神宮寺続紀に、宝亀三年八月、度会の神宮寺を飯高郡の度瀬の山房に徙す、また同じく十一年二月、神祇官言す、伊勢大神宮寺、先に祟り有るが為に、他処に遷し建つ、而るに今神郡に近くして、その祟り未だ止まず、飯野郡を除くの外、便地に移し造らんとすといえば、これを許す。
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『玉勝間』十三の巻 諸国小社の祢宜祝の事貞観十年六月廿八日の格に、天長二年十二月甲子の符に偁く、承前の例、諸国の小社、或いは祝を置きて禰宜無く、或いは禰宜祝並べ置く、旧例紛謬し、准拠定まる無し。加之或る国は独り女祝を置きて、永くその祭を主らしむ。右大臣宣旨す、今より以後、禰宜祝並べ置く社は、女を以て禰宜と為せ。但し先に置く者は、その身を終えしめよ者また三代実録に、貞観七年五月廿五日、是の日制す。五畿七道の諸神社の祝部、白丁を補するを停む。八位已上、及び年六十已上の人を以てこれに充てよ。先に是れ置く者は、その身を終えしめ、今より以後、立てて恒例と為せ。
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『玉勝間』十三の巻 神社を殊に宮と申す号の事同紀に、貞観九年八月二日、伊勢国の伊佐奈岐伊佐奈弥神に勅して、社を改めて宮と称し、月次祭に預からしめ、并びに内人一員を置くとある。これらによれば、凡て宮と申すと、社と申すとは、尊き卑しき差等ある事なるに、又なべて然るにもあらざるにや。殊なる大社にも、なお社と申して、宮とは申さぬも多きは、いかなる事にか有らむ。
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『玉勝間』四の巻 大神宮の外宮百錬抄に云う、長久元年七月二十六日、大風、伊勢豊受大神宮、正殿ならびに東西宝殿・瑞垣、悉く以て顛倒す、同じく八月四日、諸卿定め申す、大神宮外宮顛倒の事、主上殊に歎息す云々、と有り。大神宮外宮と申せる事、めずらし。長久は、後朱雀天皇の御世なり。
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