価原 / 『価原』茶の来歴と千利休への見方
茶ハ烟草ニ比スレバ雅物ナリ害モ亦淺キニ似タリ茶ハ嵯峨ノ天皇弘仁六年畿內及丹波播磨等ニ頒チ植シメ給ヒシ由ナレドモ僧ノ榮西歸朝ノ節種子ヲ携エテ栂尾ノ明慧上人ニ贈ラレシヨリ幽人淸賞ノ具トナリヌ足利ノ公方慈照院義政ハ天下ノ政治ニ倦ミ職ヲ其子義尚ニ讓リ東山東求堂ニ閑居シ銀閣ヲ作リテ鹿苑公ノ金閣ニ比シ猿樂ヲ修シ茶禮ヲ玩バレシヨリ其道次第ニ世ニ廣マリ其道ノ名人輩出セリ中ニ太閤秀吉ノ比堺千利休其譽レアリ古器ノ價ナド定メシニ後ニハ私慾出來リテ己ト親疎好惡ニヨリ新シキヲモ舊シトシ贋ヲモ眞トナシ心ノママニフルマヒシカバ太閤怒ラセ給ヒカラメテコレヲ誅セラレヌ其道ニトリテハ奇代ノ人ト稱スレドモ名敎中ヨリコレヲ觀レバ大ニ間然スベキ人ナリ
新字:茶ハ烟草ニ比スレバ雅物ナリ害モ亦浅キニ似タリ茶ハ嵯峨ノ天皇弘仁六年畿内及丹波播磨等ニ頒チ植シメ給ヒシ由ナレドモ僧ノ栄西帰朝ノ節種子ヲ携エテ栂尾ノ明慧上人ニ贈ラレシヨリ幽人清賞ノ具トナリヌ足利ノ公方慈照院義政ハ天下ノ政治ニ倦ミ職ヲ其子義尚ニ譲リ東山東求堂ニ閑居シ銀閣ヲ作リテ鹿苑公ノ金閣ニ比シ猿楽ヲ修シ茶礼ヲ玩バレシヨリ其道次第ニ世ニ広マリ其道ノ名人輩出セリ中ニ太閤秀吉ノ比堺千利休其誉レアリ古器ノ価ナド定メシニ後ニハ私慾出来リテ己ト親疎好悪ニヨリ新シキヲモ旧シトシ贋ヲモ真トナシ心ノママニフルマヒシカバ太閤怒ラセ給ヒカラメテコレヲ誅セラレヌ其道ニトリテハ奇代ノ人ト称スレドモ名教中ヨリコレヲ観レバ大ニ間然スベキ人ナリ
書き下し
茶は煙草に比すれば雅物なり。害もまた浅きに似たり。茶は嵯峨の天皇弘仁六年、畿内および丹波・播磨等に頒ち植えしめ給いし由なれども、僧の栄西帰朝の節、種子を携えて栂尾の明慧上人に贈られしより、幽人清賞の具となりぬ。足利の公方慈照院義政は、天下の政治に倦み、職をその子義尚に譲り、東山東求堂に閑居し、銀閣を作りて鹿苑公の金閣に比し、猿楽を修し、茶礼を玩ばれしより、その道次第に世に広まり、その道の名人輩出せり。中に太閤秀吉の比、堺の千利休、その誉れあり。古器の価など定めしに、後には私欲出で来たりて、己と親疎好悪により、新しきをも旧しとし、贋をも真となし、心のままに振る舞いしかば、太閤怒らせ給い、からめてこれを誅せられぬ。その道にとりては奇代の人と称すれども、名教中よりこれを観れば、大いに間然すべき人なり。
現代語訳
茶は煙草に比べれば雅な物である。害もまた浅いように見える。茶は、嵯峨天皇の弘仁六年に、畿内および丹波、播磨などに分けて植えさせなさったとのことであるが、僧の栄西が帰国のとき、種子を携えて栂尾の明恵上人に贈ったことから、世を離れた人が静かに楽しむ道具となった。足利の将軍慈照院義政は、天下の政治に飽きて、職を子の義尚に譲り、東山の東求堂に閑居し、銀閣を造って、鹿苑院義満公の金閣に並べ、猿楽を修め、茶の儀礼を楽しまれたことから、その道が次第に世に広まり、その道の名人が輩出した。中でも太閤秀吉のころ、堺の千利休は評判が高かった。古い器の値段などを定めたが、後には私欲が出てきて、自分との親疎や好き嫌いによって、新しいものも古いとし、偽物も本物とし、心のままに振る舞ったので、太閤はお怒りになり、捕らえて処刑した。その道にとっては並外れた人と称されるが、名教の立場から見れば、大いに非難すべき人である。
解説

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