玉勝間 / 十一の巻 茶の事
同じ書、御佛名條裏書にいはく。賜法親王祿、紅染細長一襲(御衣、)櫻色綾細長一襲、茶并茶具二裏、(付五葉枝)とあり。そのかみ早く茶をめで給ひしにこそ。但し佛事につきての事にや。茶具と有るは、いかなる物なりけん。そもそもこの茶と云ふ物のこと、はやく桓武天皇の御世に、國史に見えたりと覺ゆるを、定かにその年と云ふ事おぼえねば、ここにえ引出ず。
新字:同じ書、御仏名条裏書にいはく。賜法親王禄、紅染細長一襲(御衣、)桜色綾細長一襲、茶并茶具二裏、(付五葉枝)とあり。そのかみ早く茶をめで給ひしにこそ。但し仏事につきての事にや。茶具と有るは、いかなる物なりけん。そもそもこの茶と云ふ物のこと、はやく桓武天皇の御世に、国史に見えたりと覚ゆるを、定かにその年と云ふ事おぼえねば、ここにえ引出ず。
書き下し
同じ書、御仏名の条の裏書にいわく。法親王に禄を賜う、紅染の細長一襲(御衣、)桜色の綾の細長一襲、茶并びに茶具二裹、(五葉の枝に付く)とあり。そのかみ早く茶をめで給いしにこそ。但し仏事につきての事にや。茶具と有るは、いかなる物なりけん。そもそもこの茶と云う物のこと、はやく桓武天皇の御世に、国史に見えたりと覚ゆるを、定かにその年と云う事おぼえねば、ここにえ引き出でず。
現代語訳
同じ書(『北山抄』)の御仏名の条の裏書にこうある。「法親王に禄を賜る。紅染めの細長一襲(御衣である)、桜色の綾の細長一襲、茶と茶具を二包み(五葉の松の枝に付ける)」とある。その頃すでに茶を愛好されていたのであろう。ただし仏事にかかわってのことであろうか。「茶具」とあるのは、どのような物であったのだろう。そもそもこの茶という物のことは、早く桓武天皇の御代に国史に見えていたと記憶しているが、はっきりその年を覚えていないので、ここに引き出すことができない。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 茶の事類聚国史に、弘仁六年夏四月癸亥、近江の国滋賀の韓崎に幸す、便ち崇福寺に過ぎる、大僧都永忠・護命法師等、衆僧を率いて、門外に奉迎す、皇帝輿を降り、堂に升りて仏を礼す、更に梵釈寺に過ぎり、輿を停めて詩を賦す、皇太弟及び群臣、和し奉る者衆し、大僧都永忠手自ら茶を煎じて御に奉る、御被を施す、即ち御船湖に泛ぶ、国司風俗歌舞を奏す、五位以上并びに掾以下に、衣被を賜う、史生以下郡司以上に、綿を賜うこと差有り、また同じ年六月壬寅、畿内并びに近江・丹波・播磨等の国をして、茶を殖えて毎年これを献ぜしむ、とある、これ茶の事の、見えたるはじめなり。
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『玉勝間』九の巻 茶椀延喜民部省式、年料雑器、長門の国より進る物の中に、茶椀廿口(径各五寸)と有り。茶椀めづらし。
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『茶の本』第二章 茶の諸流・日本に伝わった茶日本はシナ文化の先蹤を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年、聖武天皇奈良の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。茶の葉はたぶん遣唐使によって輸入せられ、当時流行のたて方でたてられたものであろう。八〇一年には僧最澄、茶の種を携え帰って叡山にこれを植えた。その後年を経るにしたがって貴族僧侶の愛好飲料となったのはいうまでもなく、茶園もたくさんできたということである。宋の茶は一一九一年、南方の禅を研究するために渡っていた栄西禅師の帰国とともにわが国に伝わって来た。彼の持ち帰った新種は首尾よく三か所に植え付けられ、その一か所、京都に近い宇治は、今なお世にもまれなる名茶産地の名をとどめている。
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『玉勝間』十三の巻 花の宴類聚国史に、弘仁三年二月辛丑、神泉苑に幸し、花樹を覧て、文人に命じて詩を賦せしめ、綿を賜うこと差有り。花宴の節、此に始まるまた同六年二月庚午、神泉苑に幸して花宴す。文人に命じて詩を賦せしめ、侍臣及び文人に綿を賜うこと差有り。
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『玉勝間』十一の巻 如意と云ふものをとる事北山抄の、釈奠の又の日、明経論義のところに、博士の如意を執る事見えたり。皇朝にても、儒のかたにては、さること有りしなり。
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『玉勝間』三の巻 立花茶の湯同記に云う、大永五年三月六日、午後青蓮院門跡に参る、少納言同道せしむ、今日花の御会なり。池坊(六角堂の修行なり、花の上手なり)祗候す、十瓶余これ有り。また同六年七月廿二日、午の時青蓮院に参る、万里小路、阿野少将、高倉少納言、等同道す。池中の島に於いて、御茶有り、種種の儀尤も興有り。当時の数奇宗珠祗候す。下京の地下入道なり。数奇の上手なり。
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