玉勝間 / 十二の巻 われから、はまゆふ
此のはまおもとと云ふ物、本立ヲははせをの如くにて、土より四五寸ばかり上より、おもとと云ふ物に似たる葉の、いくへも重なりて、生出たる、葉の長さ、二尺三四寸ばかりも有べし。但しこれは、おのが見たるをもて云ふなり。猶長きもみじかきも有らむか。あまたは見ざれば、よくは知らず。常に潮をそそけば、よく榮ゆと云へり。霜をいたくおそるる物にて、冬は葉の末なかば枯るるを、春になれば、又新なるが生出て重なるなり。七月のころ花咲くを、其色白くて、垂たるが、木綿に似たるから、濱ゆふとは云ひけるにや。今も紀の國の熊野の浦、又その近きわたりの浦浦にも有て、須賀島と云ふ所には、殊に多くありと云へり。今やうの木草を好むともがらの、瓶にうゑて、もてあぞふ物なり、とぞ語りける。
新字:此のはまおもとと云ふ物、本立ヲははせをの如くにて、土より四五寸ばかり上より、おもとと云ふ物に似たる葉の、いくへも重なりて、生出たる、葉の長さ、二尺三四寸ばかりも有べし。但しこれは、おのが見たるをもて云ふなり。猶長きもみじかきも有らむか。あまたは見ざれば、よくは知らず。常に潮をそそけば、よく栄ゆと云へり。霜をいたくおそるる物にて、冬は葉の末なかば枯るるを、春になれば、又新なるが生出て重なるなり。七月のころ花咲くを、其色白くて、垂たるが、木綿に似たるから、浜ゆふとは云ひけるにや。今も紀の国の熊野の浦、又その近きわたりの浦浦にも有て、須賀島と云ふ所には、殊に多くありと云へり。今やうの木草を好むともがらの、瓶にうゑて、もてあぞふ物なり、とぞ語りける。
書き下し
このはまおもとと云う物、本立ちははせおの如くにて、土より四五寸ばかり上より、おもとと云う物に似たる葉の、いくえも重なりて、生い出でたる、葉の長さ、二尺三四寸ばかりも有るべし。但しこれは、おのが見たるをもて云うなり。なお長きもみじかきも有らむか。あまたは見ざれば、よくは知らず。常に潮をそそげば、よく栄ゆと云えり。霜をいたくおそるる物にて、冬は葉の末なかば枯るるを、春になれば、また新たなるが生い出でて重なるなり。七月のころ花咲くを、その色白くて、垂れたるが、木綿に似たるから、浜ゆうとは云いけるにや。今も紀の国の熊野の浦、またその近きわたりの浦々にも有りて、須賀島と云う所には、殊に多くありと云えり。今ようの木草を好むともがらの、瓶にうえて、もてあそぶ物なり、とぞ語りける。
現代語訳
「この浜おもとという物は、根元の立ち方は芭蕉のようで、土から四、五寸ほど上から、おもとという植物に似た葉が幾重にも重なって生え出ていて、葉の長さは二尺三、四寸ほどもあるだろう。ただしこれは、自分が見たものによって言うのである。もっと長いものも短いものもあるだろうか。たくさんは見ていないので、よくは知らない。いつも潮水を注ぐとよく茂るという。霜をひどく恐れるもので、冬は葉の先が半ば枯れるが、春になるとまた新しい葉が生え出て重なるのである。七月ごろに花が咲くが、その色が白くて垂れ下がっているのが木綿(ゆう)に似ているから、浜木綿と言ったのであろうか。今も紀伊国の熊野の浦や、その近くの浦々にもあって、須賀島という所にはとりわけ多くあるという。今どきの草木を好む人たちが、鉢に植えて楽しむものである」と語った。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 われから、はまゆふおしえ子なる、安濃の津の芝原春房が語りけるは、あるとき、三重の郡四日市の浦の船人共の、おのがどち、はかなしごとども云いあえる中に、一人が、われからくわぬ僧もなやと云うことを、口ずさびたるに、ふと耳とまりて、われからと云うは、いかなる物ぞと問いしかば、うち笑いて、われからを知らぬ人も有りけり、海の藻の中にまじりて、もはら藻のさましたる虫なり、海菜の中にまじりたるをば、さながら乾したるを、色も形も、分きがたければ、え知らで、ほうしも皆くうなりと云う。なお問い聞くに、春の末ごろとる、雑魚と云う、こまかなる魚の中にもまじりて、長さ多くは三寸四寸ばかり有りて、色青く、まれには黄ばみたるも有りて、藻の如くに見えて、動く物ある、それなりとぞ云いける、と語りき。そもそもこの物は、今もかく、たしかにてある物なるを、物知り人たち、くさぐさの説有りて、さだかならざるようなるは、ただ書のうえにのみかかずらいて、そのまことの物のうえを、尋ぬる事無きが故なり。また同じ人のかたりけるは、浜木綿は、或る人も云える如く、今の世に、浜おもとと云う物なるべし。
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『玉勝間』十三の巻 巻頭(おもひ草十三)されどすすきの中にのみ生うるから、近き世に事好む者の、おしてそれと名づけたるにも有らむかと云いて、その草の図をも書きて、見せにおこせたる、そのかたは、かくぞ有りける。その後に又あるとき、花の咲きたる頃、一もと掘りて、薄のきりくいごめに、竹の筒の中に植えて、ただにその草をも、見せにおこせたるを、移し植えて見けるに、しばしは生いつきたるさまにて有りしを、ほどなく冬枯れにける。又のとしの春、萌えや出ると、待ちけるに、ついに枯れて、薄ながらに芽も出ずなりにきかし。さるは後にたずね見れば、このわたりの野山なる、すすきの中にも、ある草にぞ有りける。これ古の思い草ならむことはしも、げにいと覚束なくなむ。
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『玉勝間』十三の巻 巻頭(おもひ草十三)末ひろくしげりけるかな思い草お花が本は一もとにして かく詠めるこころは、恋の歌のつねに、尾花がもとの思い草と詠むなるは、そのはじめを尋ぬれば、万葉集の十の巻に、「道のべのおばなが本の思い草、今さらに何物か思わむ、と云える歌ただ一つあるのみにて、これを置きては見えぬ事なるを、この一本によりてなむ、後にはひろく詠む事となれるよしを詠めるにぞ有りける。そもそもこの思い草と云う草は、いかなる草にか、さだかならぬを。一とせ尾張の名児屋の、田中の道麻呂が許より、文のたよりに、今の世にも、思い草と云いて、すすきの中に生うる、小さき草なむあるを、高さ三四寸、あるは五六寸ばかりにて、秋の末に花咲くを、その色紫の黒みたるにて、うち見たるは、菫の花に似て、すみれのごと、色のにおいは無し。花咲く頃は、葉は無し、この草薄の中ならでは、ほかには生ず。花のはしつかたなる所の中に、黒大豆ばかりの大きさなる実の有るを、とりて蒔けば、よく生うるなり。されどそれも、薄の下ならでは、蒔けども植うれども、生うること無し。古の思い草も、これにや有らむ。
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『玉勝間』三の巻 むろの木田中の道まろが云えりしは、万葉の歌によみたる、室の木と云うものは、今もいずこにも多く有る物なり。美濃の不破の郡多芸の郡などにて、ひむろとも、ひもろ杉とも云い、伊勢の員弁の郡桑名の郡のあたりにて、たちむろはいむろと云い、尾張の羽栗の郡にて、ねずむろとも、べぼの木ともむろとも云えり。すべて山に多き木にて、地にはうと、高くたつと、二くさ有りて、はう方には大木は無きを、立てるかたには、大きなるも多し。柏子と云う木に似て、又杉にも似たり。二種ともに、実多くなるなりと云えりき。
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