玉勝間 / 十二の巻 妻をむかふ、酒をくむ
今の世の歌よみの、詞書などに、某の妻をむかへられたるをことぶきて、詠みておくりけるなど、妻を迎ふと書く事、定まりのやうなり。これ雅言にあらず。古、に然いへること無し。妻をまうけとこそ書べけれ。古、はすべて、男をまうく、子をまうくなどぞ云ひける。又酒をくむと云ふことも、今の世の歌人の、定まれる事なれど、これもみやび言にあらず。すべて酒をくみてのむは、戎國の俗にこそあれ、皇國にはさる事は、古へも今も、有る事なし。されば古くは、歌にも文にも、くむと云へることは、をさをさ見えず、唯だのむとこそ云へれ。然るを今の歌人は、いにしへの例をば考へずして、唯だおしあてに、妻をまうく、酒をのむとは、今の俗につねに云ふことなれば、雅たらず、むかふと云ひ、くむと云はむこそ、雅たらめとぞ、心得ためる。そはかの香を聞と云ふたぐひにて、中中に古、にたがへる俚言なる物をや。
新字:今の世の歌よみの、詞書などに、某の妻をむかへられたるをことぶきて、詠みておくりけるなど、妻を迎ふと書く事、定まりのやうなり。これ雅言にあらず。古、に然いへること無し。妻をまうけとこそ書べけれ。古、はすべて、男をまうく、子をまうくなどぞ云ひける。又酒をくむと云ふことも、今の世の歌人の、定まれる事なれど、これもみやび言にあらず。すべて酒をくみてのむは、戎国の俗にこそあれ、皇国にはさる事は、古へも今も、有る事なし。されば古くは、歌にも文にも、くむと云へることは、をさをさ見えず、唯だのむとこそ云へれ。然るを今の歌人は、いにしへの例をば考へずして、唯だおしあてに、妻をまうく、酒をのむとは、今の俗につねに云ふことなれば、雅たらず、むかふと云ひ、くむと云はむこそ、雅たらめとぞ、心得ためる。そはかの香を聞と云ふたぐひにて、中中に古、にたがへる俚言なる物をや。
書き下し
今の世の歌よみの、詞書などに、某の妻をむかえられたるをことぶきて、詠みておくりけるなど、妻を迎うと書く事、定まりのようなり。これ雅言にあらず。古に然いえること無し。妻をもうけとこそ書くべけれ。古はすべて、男をもうく、子をもうくなどぞ云いける。また酒をくむと云うことも、今の世の歌人の、定まれる事なれど、これもみやび言にあらず。すべて酒をくみてのむは、戎国の俗にこそあれ、皇国にはさる事は、古えも今も、有る事なし。されば古くは、歌にも文にも、くむと云えることは、おさおさ見えず、ただのむとこそ云えれ。然るを今の歌人は、いにしえの例をば考えずして、ただおしあてに、妻をもうく、酒をのむとは、今の俗につねに云うことなれば、雅たらず、むかうと云い、くむと云わむこそ、雅たらめとぞ、心得ためる。そはかの香を聞くと云うたぐいにて、なかなかに古にたがえる俚言なる物をや。
現代語訳
今の世の歌詠みが、詞書などに「某が妻を迎えられたのを祝って詠んで贈った」などと、「妻を迎ふ」と書くことは、決まりのようになっている。これは雅な言葉ではない。昔にそう言ったことは無い。「妻をまうけ」と書くべきである。昔はすべて「男をまうく」「子をまうく」などと言ったのである。また「酒をくむ」ということも、今の世の歌人の決まり文句だが、これも雅な言葉ではない。そもそも酒を酌んで飲むのは外国の風俗であって、我が国にはそのようなことは昔も今も無い。だから古くは、歌にも文にも「くむ」と言ったことはほとんど見えず、ただ「のむ」と言っている。それなのに今の歌人は、昔の例を考えずに、ただ当て推量で、「妻をまうく」「酒をのむ」は今の俗語でいつも言うことだから雅でない、「むかふ」と言い「くむ」と言ってこそ雅だろう、と心得ているようだ。それはあの「香を聞く」と言う類いであって、かえって古えに違う俗な言葉なのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 来と云ふ言に二くさのはたらきある事かくて今の世の、歌詠む人など、歌には、さすがに古えのままに、初めのはたらきにのみ詠めども、文には、多く後のかたを用いて書くはいかにぞや。たとえば、人のきてと云うべきを、人のきたりてと云い、こむと云いしと云うべきを、きたらむと云いしと云う類いなり。こは思うに、初めの活用の方は、今の世の俗語につかう故に、物はかなく聞え、後の方ぞ、物よむに用うる故に、ものものしく、正しきように聞ゆるから、そを善しと心得てなめり。されどそはなかなかに悪ろし。古えの雅文に、後のはたらきを用いたる事は、おさおさ無きをば、などて考えざるらむ。
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『玉勝間』七の巻 香をきくと云ふは俗言なる事香を聞くと云うは、もと漢言にて、古の詞にあらず。すべて物の香は、薫物などをも、かぐと云うぞ雅言にて、古今集の歌などにも、花たちばなの香をかげばと見え、源氏物語の梅枝の巻に、たき物どものおとりまさりを、兵部卿の宮の論め給うところにも、人々の心々に合わせ給える、深さ浅さを、かぎあわせ給えるに、などこそ見えたれ。聞くと云える事は、昔の書に見えたる事無し。今の世の人は、そをば知らで、香などをかぐと云わむは、いやしき詞のごと心得ためるはなかなかのひがことなり。聞くと云うぞ、俗言には有りける。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つさてそれを、わが本意なりと云えるなり。「今までに云云、とてやみにけりと云う詞、上に心ざしはたさむとや思いけむ、と云えるに、かなえりとも聞えず。このくだり、真字本はよく聞えたり。昔男ありけり、いかが有りけむ、その男云云は、真名本に、昔男女云云と有り、さらでは足らわず。さてやがて後ついに、この所詞重なりて、くだくだし。真名本には、さてついにと有り。さてここは、作者の語なれば、きょうまでと云えるもいかがなり。然れば、さて後ついによくてやあらん云云、とこそ有るべけれ。むくつけきことと云うより、おわぬものにや有らんと云うまでは、のろいごとを評したる語なり。むくつけきことは、むくつけき事よと云う意なり。かくて今こそは見めと云う一句は、さかでうちたる男の、のろいていえる言なるを、評する語の中へ引き出でて云えるなり。よき酒ありと聞きて、この下に詞落ちたるなり。さらでは、下にその日はと云えるも、より所無し。試みにその落ちたる詞をおぎなわば、よきさけ有りと聞きて、うえにありける人々、飲まんとて来けり。左中弁云云、などや有りけむ。あるじのはらからなるの下に、男など有らまほし。なくなりにけるを、真名本に、なくなりたる女をと有り、よろし。
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『玉勝間』十二の巻 俊成卿定家卿などの歌を悪しく云ひなす事近き頃、万葉ぶりの歌をものするともがら、みだりに心高き事を云いて、俊成の卿定家の卿などの歌をば、いたく拙きようにたやすげに云いおとすなるは、世の歌よみどもおしなべて、神のごと尊みかしこむを、ねたみて、あながちに云いくたさむとする、みだり事なり。そもそもこの卿たちの歌、悪しき事も、絶えて無きには有らざめれど、すべてのよう、古えより世々のあいだに、ぬけ出でたるところ有りて、まことにいとめでたし。然云いおとすともがら、いかに詠むとも、あしもとへ寄る事あたわじをや。
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『玉勝間』十二の巻 俗言にはのと云ふべきをはぶくことある事今の俗言には、のと云うべきを、省きて云わざるたぐい多し。国々の郡の名村の名など、古は必ず、なにの郡またなにの村とこそ云えるに、今はなべて、なにごおりなにむらとのみ云いてのと云う事無し。またふじわらの某、みなもとの某などは、今ものと云えども、いわゆる称号苗字には、のを付くる事無し。うちとけごとには、稀れに付けて云う事あれど、そをばかえりて正しからぬ事にすめり。されど雅びては、称号苗字にも必ずのと云うべきわざぞ。大かた言の葉の学びせむ人は、かかるいささかのふしにも、心をつけて、雅と俗とのけじめを、わきまえ知るべきわざになむ。
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『玉勝間』十一の巻 うひ学びの輩の歌よむさま今の世にういまなびのともがらの、詠み出でたる歌は、聞こえぬ処を、聞こゆるさまにとりなおさば、古人の歌と、もはら同じくなること、常にあり。これさるべき事なり。いかにと云うに、ういまなびの程は、おおかた題をとりぬれば、まず昔の善き歌の集の中の、その題の歌どもを見て、その中の一つによりて、ここかしこ少しずつ詞を加えて、綴りなすならいなるを、大かた古人の善き歌は、その詞みな、必ず然云わではかなわぬさまにて、おおかた一もじも加え難き物なるを、いまだしき者の、心も得ず、ここかしこと替えぬれば、かえたる所の、必ずととのわぬわざなる故に、歌よく心得たる人の見て、そをととのうさまに引きなおせば、必ずまた本の古歌とひとしくはなるなり。さてさように古歌ともはら同じくては、新たに詠めるかい無きようなれども、うい学びの程のは、後まで、詠める歌数に入るべきにも有らざれば、そはとてもかくても有りぬべし。歌のさまこころえむ学びのためには、しばらくただおいらかにて、上の件のごとしたらむぞ善かるべき。さるを始めよりさかしだちて、人のふるさぬ珍しきふしを詠まむとせば、なかなかによこさまなる悪しき道にぞ、まどい入りぬべき。
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