玉勝間 / 十二の巻 大嘗会の斎場
此ふみの初若菜ノ卷のはじめに出せる、中臣ノ壽詞の中に、大嘗會カ齋塲とある、會ノ字は、宮の誤なるべしと云ひて、ミヤと訓るはおのれふと心得たがへたるにて、中中に誤りなりき。本のままにてよろし。大嘗會の三字を、オホニへと訓ムべし。齋塲は、別に北野に於て、其地をト定めて、搆、造らるる事にて、大嘗宮とは別なり。九月下旬、悠紀主基二國より齎參れる、諸の物も人も、まづ齋塲に詣て、そこにてくさぐさの事有て、十一月祭の當日に至リて、齋塲より大嘗宮に運ヒ奉る。その行列など、儀式に委見えたり。又はじめ二國の齋郡にも、齋塲を搆へて、物することなれば、ここはその國の齋場を云へるか、はた京の齋塲か、いづれにても有べし。
新字:此ふみの初若菜ノ巻のはじめに出せる、中臣ノ寿詞の中に、大嘗会カ斎塲とある、会ノ字は、宮の誤なるべしと云ひて、ミヤと訓るはおのれふと心得たがへたるにて、中中に誤りなりき。本のままにてよろし。大嘗会の三字を、オホニへと訓ムべし。斎塲は、別に北野に於て、其地をト定めて、搆、造らるる事にて、大嘗宮とは別なり。九月下旬、悠紀主基二国より齎参れる、諸の物も人も、まづ斎塲に詣て、そこにてくさぐさの事有て、十一月祭の当日に至リて、斎塲より大嘗宮に運ヒ奉る。その行列など、儀式に委見えたり。又はじめ二国の斎郡にも、斎塲を搆へて、物することなれば、ここはその国の斎場を云へるか、はた京の斎塲か、いづれにても有べし。
書き下し
この書の初若菜の巻のはじめに出だせる、中臣の寿詞の中に、大嘗会の斎場とある、会の字は、宮の誤りなるべしと云いて、みやと訓めるはおのれふと心得たがえたるにて、なかなかに誤りなりき。本のままにてよろし。大嘗会の三字を、おおにえと訓むべし。斎場は、別に北野に於て、その地をト定めて、構え造らるる事にて、大嘗宮とは別なり。九月下旬、悠紀・主基二国より齎し参れる、諸の物も人も、まず斎場に詣でて、そこにてくさぐさの事有りて、十一月祭の当日に至りて、斎場より大嘗宮に運び奉る。その行列など、儀式に委しく見えたり。またはじめ二国の斎郡にも、斎場を構えて、物することなれば、ここはその国の斎場を云えるか、はた京の斎場か、いずれにても有るべし。
現代語訳
この書の「初若菜」の巻(一の巻)の初めに出した「中臣寿詞」の中に「大嘗会の斎場」とある、その「会」の字は「宮」の誤りだろうと言って「みや」と訓んだのは、私がふと思い違えたのであって、かえって誤りであった。本のままでよい。「大嘗会」の三字を「おほにへ」と訓むべきである。斎場は、大嘗宮とは別に北野においてその地を占い定めて造られるもので、大嘗宮とは別である。九月下旬、悠紀・主基の二国から持って参ったさまざまな物も人も、まず斎場に参って、そこでいろいろの事があって、十一月の祭の当日になって、斎場から大嘗宮へ運び申し上げる。その行列などは『儀式』に詳しく見えている。また初めに二国の斎郡(いつきのこおり)にも斎場を構えて事を行うので、ここはその国の斎場を言うのか、それとも京の斎場か、どちらでもあり得る。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 中臣寿詞相候は、儀式には相仕、大嘗祭式には共作と有り。これらを合わせて思うに、仕も候も誤りにて、相作なるべし。由志理伊都志理は、由は斎、伊都は厳にて、共に斎い清めたること、志理は、斎まわり清まわりの、まわりの如き、辞と聞こえたり。日時撰撰定、こはいつも定まれる事なるを、かく申すは、上代には、その度々撰びて定めしにや。さてその代の詞のままに、後までも申せるか。赤丹乃穂仁毛の毛の字は、衍なり。後の人、この言の意を知らず、ただ上に二つ仁毛と有るにならいて、みだりにここにも加えたる物なるべし。明御座弖の弖は、かならず止と有るべき所なり。相嘗は、阿比爾閉と唱うべし。爾閉を牟倍と唱うるは、後の世の音便にくづれたる唱えなり。大嘗も、大爾閉なるを、大牟倍と云うと同じ。さてこの相嘗は、天皇と相伴に、新饗し奉る意の名にて、俗に云わゆる相伴の心ばえなり。さる故にこの祭は、必ずしもその神社の尊き卑きにもよらず、必ず預かり給うべく思わるる神にも、預かり給わぬ多し。これ殊に故有りて、預かり給うは預かり給うなるべし。その神七十一座おわしまして、四時祭式に見えたり。
-
『玉勝間』一の巻 中臣寿詞その中に、上に引きたる左京二条座二座神は、大社の列にだに入り給わざるに、この祭に預かり給うことは、新嘗に殊なる故ある神なるべし。明良志は、理を延べて良志と云えるにて、阿加理なり。事仁は、下の奉仕と云うへ続く辞なり。食倍はみな多倍と訓むべし、給えと云う事なり。さて聞食倍の下に、弖と云う辞を添えて心得べし。天皇明庭の明の字は、朝の誤りなり。禱乎所聞食止は、一本には称辞竟奉良久止と有り、これも悪しからず。さて天忍雲根神云々の事、伊勢の外宮の書どもに、天村雲命の事として記せり。同じ神にやあらむ。さてこの寿詞を申す事は、辰の日豊楽院に幸し、悠紀の帳に御す、神祇官の中臣、賢木を笏に執りそえて、南門より入る。版位につき跪きて、天つ神の寿詞を奏すと、大嘗祭式に見えたり。わすれたり、大嘗会乃斎場とある会の字は、宮を誤れるなるべし
-
『玉勝間』一の巻 中臣寿詞物部の人等、酒造児・酒波・粉走・灰焼・新採・相候・稲実公等、大嘗会の斎場に持ち斎わり参来て、今年十一月の中の卯の日に、ゆしりいつしり持ち恐み恐み、清まわり仕え奉り、月の内に日時を撰び撰び定めて献る悠紀・主基の黒木・白木の大御酒を、大倭根子天皇が天つ御膳の長御膳の遠御膳と、汁にも実にも赤丹の穂にも聞こしめして、豊の明りに明り御坐して、天つ神の寿詞を称辞定め奉る皇神等も、千秋五百秋の相嘗に相うづのい奉り、堅磐に常磐に斎い奉り、いかし御世に栄えしめ奉り、康治元年より始めて、大地・月・日と共に照らし明らし御坐す事に、本末傾けず茂し槍の中執り持ちて仕え奉る中臣祭主正四位上行神祇大副大中臣朝臣清親、寿詞を称辞定め奉らくと申す。
-
『玉勝間』七の巻 御世御世の大嘗月日悠紀主基国郡宇多、仁和四十廿八御禊、十一廿二乙卯大嘗、近江播磨、醍醐、寛平九十廿五丁卯御禊、十一廿辛卯大嘗、近江丹波、御屏風野美材書く、朱雀、承平元十廿五御禊、十一十三辛卯大嘗、近江丹波、御屏風道風書く、村上、天慶九十廿八乙酉御禊、十一十六癸卯大嘗、近江備中、御屏風、道風書く、冷泉、安和元十廿六御禊、十一廿四癸卯大嘗、近江播磨、御屏風、紀時文書く、円融、天禄元十一十七乙卯大嘗、近江丹波、御屏風、藤佐理書く、花山、永観二十廿五御禊、十一廿一辛卯大嘗、近江高島郡、丹波天田郡、御屏風、佐理書く、一条、寛和二十廿三御禊、十一十五己卯大嘗、近江野洲郡、備中下道郡、御屏風、佐理書く、三条、長和元十廿七辛卯御禊、十一廿三乙卯大嘗、近江坂田郡、丹波天田郡、御屏風、行成書く、後一条、長和五十廿三甲午御禊、十一十五己卯大嘗、近江甲賀郡、備中下道郡、御屏風、行成書く、後朱雀、長元九十廿九乙酉御禊、十一十七癸卯大嘗、近江愛智郡、丹波氷上郡、御屏風、藤定頼書く、後冷泉、寛徳二十廿辛未御禊、十一十五大嘗、近江甲賀郡、備中英賀郡、御屏風、源兼行書く、後三条、治暦四十廿八丁卯御禊、十一廿二辛卯大嘗、近江愛智郡、備中英賀郡、御屏風兼行書く、白川、承保元十卅甲午御禊、十一廿一乙卯大嘗、近江坂田郡、丹波多紀郡、御屏風、兼行、堀川、
-
『玉勝間』八の巻 大嘗ゆきすきの国大嘗の悠紀主基は、かならず京より東と西なる国を、定めらるるように見えたれども、さしもあらざるにや。神亀元年の度は、由機備前の国、須機播磨の国なり。天平神護元年の度は、由機美濃の国、須伎越前の国なりき。
-
『玉勝間』一の巻 悠紀主基大嘗の悠紀主基の主基の事、書紀の私記に、師説に、斎忌に次ぐなりと云えるより、今に至るまで、人皆この意とのみ心得ためれど、ひがことなり。かの説は、天武紀に、斎忌、此をば踰既と云う、次、此をば須岐と云う、と有るによれるなれども、斎忌こそこの字の意なれ、次は借字にして、この字の意にはあらず。古はすべて言だに同じければ、字は、意にはかかわらず、借りて書けるに、次を須岐とも云えるから、言の同じきままに、借りて書きならえるを、そのままに書かれたる物なり。次の意にあらずと云うゆえは、悠紀と主基とは、何事も二方全く同じさまにして、一事もいささかのおとりまさりあること無ければ、次と云うべきよしさらに無し。天武紀なるは、借字なること、疑い無き物をや。主基は、禊の曾岐と同言にして、濯と云うことなり。みそぎも身灌にて、そそくとすすくと同じきを、共につづめて、曾岐とも須岐とも云えるなり。されば是れも、斎忌と同じさまの名にして、濯ぎ清めたるよしなるぞかし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る