玉勝間 / 八の巻 大嘗ゆきすきの国
大嘗の悠紀主基は、かならず京より東と西なる國を、定めらるるやうに見えたれども、さしもあらざるにや。神龜元年の度は、由機備前ノ國、須機播磨ノ國なり。天平神護元年の度は、由機美濃ノ國、須伎越前ノ國なりき。
新字:大嘗の悠紀主基は、かならず京より東と西なる国を、定めらるるやうに見えたれども、さしもあらざるにや。神亀元年の度は、由機備前ノ国、須機播磨ノ国なり。天平神護元年の度は、由機美濃ノ国、須伎越前ノ国なりき。
書き下し
大嘗の悠紀主基は、かならず京より東と西なる国を、定めらるるように見えたれども、さしもあらざるにや。神亀元年の度は、由機備前の国、須機播磨の国なり。天平神護元年の度は、由機美濃の国、須伎越前の国なりき。
現代語訳
大嘗祭の悠紀(ゆき)・主基(すき)は、必ず都より東と西にある国を定められるように見えるけれども、そうとばかりでもないのであろうか。神亀元年の時は、悠紀が備前国、主基が播磨国である。天平神護元年の時は、悠紀が美濃国、主基が越前国であった。
解説
天皇の即位後に一代一度行われる大嘗祭で、新穀を献じる悠紀・主基の国の選び方を論じた段である。大嘗祭では、卜定によって悠紀と主基の二つの国を定め、その国の田で収穫した稲を神に供える。平安時代以降は、悠紀を都の東の近江、主基を西の丹波や備中から選ぶのが通例となり、東と西に分ける決まりのように思われていた。ところが宣長が続日本紀を調べると、聖武天皇の神亀元年は備前と播磨でどちらも西、称徳天皇の天平神護元年は美濃と越前でどちらも東であった。後世の慣例を古来の決まりと思い込まず、古い記録に当たって確かめると、実際はそうでなかったことが分かる。宣長は「さしもあらざるにや」と控えめに問いかけるが、その指摘は的確である。伝統と信じられていることが、いつ始まったのかを確かめる姿勢の大切さを教える段である。
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