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玉勝間 / 二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞

小右記ノ、長和五年のところに云く、御即位後、奉幣天下諸神祝詞。天皇我詔旨〓、皇神等廣前に、稱辭言奉申給久、髙天原神留坐、皇親神漏伎神漏美命以、事寄給部流、豐葦原瑞穂乃國乃、天乃日嗣高御座乃次次、自去四月廿八日食國天下之政依所聞食、其狀申給止、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差使弖、禮代幣帛を令捧持奉給布、天皇御命を、申給久と申。今案、件文祝詞也、非宣命とあり。稱辭言奉申給は、言ノ字は竟の誤なるべし。言ノ字あまりて、竟と云ふことたらざればなり。又申と云ふ言もあまれり、奉申かとも思へど、それも古、には例なき事なり。さて又次次も聞えず、次隨隨など有けむが、字の落たるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのはで、ことわり聞えがたき事もおほかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古、のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなほざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。

新字:小右記ノ、長和五年のところに云く、御即位後、奉幣天下諸神祝詞。天皇我詔旨〓、皇神等広前に、称辞言奉申給久、高天原神留坐、皇親神漏伎神漏美命以、事寄給部流、豊葦原瑞穂乃国乃、天乃日嗣高御座乃次次、自去四月廿八日食国天下之政依所聞食、其状申給止、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差使弖、礼代幣帛を令捧持奉給布、天皇御命を、申給久と申。今案、件文祝詞也、非宣命とあり。称辞言奉申給は、言ノ字は竟の誤なるべし。言ノ字あまりて、竟と云ふことたらざればなり。又申と云ふ言もあまれり、奉申かとも思へど、それも古、には例なき事なり。さて又次次も聞えず、次随随など有けむが、字の落たるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのはで、ことわり聞えがたき事もおほかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古、のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなほざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。

書き下し

小右記の、長和五年のところに云わく、御即位の後、天下の諸神に奉幣する祝詞。天皇が詔旨と、皇神等の広前に、称辞言え奉り申し給わく、高天原に神留まり坐す、皇親神漏伎神漏美の命以ちて、事寄さし給える、豊葦原の瑞穂の国の、天つ日嗣の高御座の次次、去る四月廿八日より食国天下の政を聞こし食すに依りて、その状を申し給うと、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差し使わして、礼代の幣帛を捧げ持たしめ奉り給う、天皇が御命を、申し給わくと申す。今案ずるに、件の文は祝詞なり、宣命に非ず、とあり。称辞言奉申給は、言の字は竟の誤りなるべし。言の字あまりて、竟と云うことたらざればなり。また申と云う言もあまれり、奉申かとも思えど、それも古には例なき事なり。さてまた次次も聞こえず、次隨隨など有りけむが、字の落ちたるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのわで、ことわり聞こえがたき事もおおかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなおざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。

現代語訳

『小右記』(藤原実資の日記)の長和五年(1016)の条にこうある。「御即位の後、天下の諸神に幣帛を奉る祝詞。天皇の詔旨として、皇神たちの御前に、たたえ言を申し上げることには、高天原に神としてとどまっておられる皇室の祖神、神漏伎・神漏美の命のお言葉によってお任せくださった豊葦原の瑞穂の国の、天つ日嗣の高御座を次々と受け継ぎ、去る四月二十八日から天下の政をお執りになったので、その次第を申し上げようと、散位正六位上の大中臣朝臣高邦を使いとして遣わし、礼の品である幣帛を捧げ持たせて奉らせる、という天皇のお言葉を申し上げる、と申す。今考えるに、この文は祝詞であって宣命ではない」とある。「称辞言奉申給」の「言」の字は「竟」の誤りであろう。「言」の字が余計で、「竟(おえまつる)」という語が足りないからである。また「申」という語も余っている。「奉申」かとも思うが、それも古には例のないことである。さらに「次次」も意味が通らない。「次隨隨(つぎてのまにまに)」などとあったのが、字が落ちたのであろう。「四月二十八日」は「正月二十九日」の誤りである。これらは善本ではそうなっているはずだ。そもそも祝詞や宣命の文は、中古からこのかた次第に拙くなって、たいてい言葉が整わず、筋の通らないことも多いのに、それを細かく吟味する人もいないのは、古の心にうとく、古語を知らないからである。これらは言葉に彩りをこめて作るもので、古のものはみなまことに見事だったのに、こうしていい加減になっていくのが嘆かわしく、今ついでに少し注意を促しておくのである。

解説

この巻の前半には、藤原実資の日記『小右記』など古記録からの抜き書きが続く。その最初が、後一条天皇の即位後に天下の神々へ幣帛を奉ったときの祝詞である。宣長はただ写すだけでなく、文の傷を一つずつ指摘する。「称辞竟へまつる」という祝詞の定型から見て「言」は「竟」の誤り、「申」は余計、「次次」は字が落ちている、日付も即位の日と合わない、と。そのうえで、中古以後の祝詞・宣命が言葉の整わない拙いものになったのに、誰も吟味しないのは古語を知らないからだと嘆く。祝詞は言葉そのものに美しさを込めた文だというのが宣長の見方で、『古事記伝』に注いだ古語の学がここでも物差しになっている。古い文書を読むとは、その傷まで見分けることだと教える一段である。

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