玉勝間 / 十二の巻 朝鮮ノ国にて加藤清正の人がたを射るわざ
新井氏の藩翰(○輸)譜にいはく、朝鮮國慶尙全羅道等の水營の軍官、年每に日をうらなひて、諸營戰艦をあつめて、海に浮かべて、海神を祭るわざあり。蒭にて人像を造り、是れを射てしづむ。此事、かの國の人は、秘すれども、よく聞けば、淸正を呪咀するわざにて、その人像は、淸正にかたどれるなり。然るにかの國のよく射る者と云へども、おそれて、中る事あたはざるを、いづれの年にか有けむ、射あてたる者ありければ、さう無き高名と、云ひののしりけるに、その射たる者、たちまち物に狂ひてぞ、をどり走りける。其親族ども、淸正の靈を祭りて、深く罪を謝しけるにぞ、かの人はうつし心になりにける。それより後は、いよいよ皆おそれて、射る者かへりて、あたらむ事をおそるるとぞ。又本朝寛文の中ごろ、かの例の祭に、水營の軍艦ども、海に浮かびけるに、にはかに風はげしくおこり、浪荒く立て、艦ども多くやぶれにける。これ淸正のたたりなりとて、いたく恐れけるよし、對馬の國人に、ひそかにうけ給はりぬと、加藤氏の條に見えたり。宣長これを讀みて、詠みけるは、いそしきや此おみにこそたらし姫神の命の御たまたびけめ、かの朝鮮のえだちに、もろこしの國まで大御國の光リをかがやかせしは、此主になむ有ける。
新字:新井氏の藩翰(○輸)譜にいはく、朝鮮国慶尚全羅道等の水営の軍官、年毎に日をうらなひて、諸営戦艦をあつめて、海に浮かべて、海神を祭るわざあり。蒭にて人像を造り、是れを射てしづむ。此事、かの国の人は、秘すれども、よく聞けば、清正を呪咀するわざにて、その人像は、清正にかたどれるなり。然るにかの国のよく射る者と云へども、おそれて、中る事あたはざるを、いづれの年にか有けむ、射あてたる者ありければ、さう無き高名と、云ひののしりけるに、その射たる者、たちまち物に狂ひてぞ、をどり走りける。其親族ども、清正の霊を祭りて、深く罪を謝しけるにぞ、かの人はうつし心になりにける。それより後は、いよいよ皆おそれて、射る者かへりて、あたらむ事をおそるるとぞ。又本朝寛文の中ごろ、かの例の祭に、水営の軍艦ども、海に浮かびけるに、にはかに風はげしくおこり、浪荒く立て、艦ども多くやぶれにける。これ清正のたたりなりとて、いたく恐れけるよし、対馬の国人に、ひそかにうけ給はりぬと、加藤氏の条に見えたり。宣長これを読みて、詠みけるは、いそしきや此おみにこそたらし姫神の命の御たまたびけめ、かの朝鮮のえだちに、もろこしの国まで大御国の光リをかがやかせしは、此主になむ有ける。
書き下し
新井氏の藩翰譜にいわく、朝鮮国慶尚・全羅道等の水営の軍官、年毎に日をうらないて、諸営の戦艦をあつめて、海に浮かべて、海神を祭るわざあり。わらにて人像を造り、これを射てしずむ。この事、かの国の人は、秘すれども、よく聞けば、清正を呪詛するわざにて、その人像は、清正にかたどれるなり。然るにかの国のよく射る者と云えども、おそれて、中る事あたわざるを、いずれの年にか有りけむ、射あてたる者ありければ、そう無き高名と、云いののしりけるに、その射たる者、たちまち物に狂いてぞ、おどり走りける。その親族ども、清正の霊を祭りて、深く罪を謝しけるにぞ、かの人はうつし心になりにける。それより後は、いよいよ皆おそれて、射る者かえりて、あたらむ事をおそるるとぞ。また本朝寛文の中ごろ、かの例の祭に、水営の軍艦ども、海に浮かびけるに、にわかに風はげしくおこり、浪荒く立ちて、艦ども多くやぶれにける。これ清正のたたりなりとて、いたく恐れけるよし、対馬の国人に、ひそかにうけたまわりぬと、加藤氏の条に見えたり。宣長これを読みて、詠みけるは、いそしきやこのおみにこそたらし姫神の命の御たまたびけめ、かの朝鮮のえだちに、もろこしの国まで大御国の光をかがやかせしは、この主になむ有りける。
現代語訳
新井白石の『藩翰譜』にこうある。朝鮮国の慶尚道・全羅道などの水軍の軍官は、毎年日を占って諸営の軍船を集め、海に浮かべて海神を祭る行事がある。藁で人形を造り、これを射て沈める。このことは彼の国の人は秘密にしているが、よく聞くと加藤清正を呪詛する行事で、その人形は清正をかたどったものである。ところが彼の国の弓の上手でも、恐れて当てることができずにいたのを、いつの年であったか、射当てた者がいたので、比べる者のない手柄だと騒ぎ立てたところ、その射た者はたちまち物狂いになって、踊り走った。その親族たちが清正の霊を祭って深く罪を詫びたところ、その人は正気に戻った。それ以後はいよいよみな恐れて、射る者はかえって当たることを恐れるという。また我が国の寛文の中ごろ(1660年代)、例の祭りで水軍の軍船が海に浮かんでいたところ、にわかに風が激しく起こり、波が荒く立って、船の多くが壊れた。これは清正の祟りだといってひどく恐れたということを、対馬の国の人からひそかに聞いた、と加藤氏の条に見えている。宣長はこれを読んで詠んだ。「勇ましいことよ。この臣にこそ、息長帯姫(神功皇后)の神の御魂が授けられたのであろう」。あの朝鮮の役において、唐の国まで大御国(日本)の威光を輝かせたのは、この人であった。
解説
関連する章句
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『秘本玉くしげ』下 蔚山の籠城さて加藤主計頭殿の蔚山に籠城せられしときに、明の寄手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど厳重なりし事にて、朝鮮の諸人おどろき感じて、たのもしく思ひ悦びしか共、久しく攻てつひにかの城を落すことあたはず、あまつさへはてには行長が後詰に切立られて、蜘の子をちらすが如く、とるものもとりあへず我先にと逃去りしは、あさましかりける有様なりき。すべて唐土は何事もみなかくのごとくにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、実用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし。殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、かの国の書に見えたるを、それさへ右の如くあさましき敗軍に及びたりしを思ふべし。又此方戦国のころ、西国辺のあぶれ者ども唐土へ渡りて濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と称して殊の外に恐れ、毎度大に手にあまりて静めかね、国中の大騒動なりし事也。
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『玉勝間』十一の巻 高麗人来朝同記に云わく、同三年五月六日、肥前入道語りて云わく。近日高麗人来朝すべきなり。先々要脚を諸大名に懸け仰せられてこれを出ださるるの処、今の時分諸大名、諸国役出銭叶うべからざるの間、高麗人京都に入れ立てらるべからず、追い返さるべきなり。その間の事、管領畠山存ぜられ候間、諸大名一揆して、高麗人を返さるべきなり。いかようたるべきやと、意見を密々に〓大外記に談合するの由これを語る。唐船は誠に日本に入るべからざるの由、先々御沙汰有るか。高麗人に於いては、既に神功皇后御退治以後、来服の三韓の随一なり。高麗相通ずるは、神慮に叶うべきなり。入るべからざるの由、今更仰せらるるは、後年の煩いたるべきか、いかにして返さるべく候や、所詮上古往昔来朝の貢賦なり、近来は商売のために入来する所有るなり。然らば牒状の文章、上古に違うか、古今の牒状を取り集め見合わせて、文章の咎に就きて、高麗人を返さるべきの由、外史の意見か云云。六月十九日、この日高麗人室町殿に参り、御目に懸くる者なり。当御代初度、かつ普広院殿の喪を弔い奉るの由の聘使なり云云。官人の名尋ね注すべし。その儀おのおの乗馬なり、布衣に笠を着く云云。その数五十騎ばかりに及ぶ数云云。路次に楽を作す、或いは馬上にこれを操る、笛一人、鼓一人、琵琶一人、鉦鼓一人、その外吹物二人これ有り云云。進上物・牒状、尋ね注すべし。東山双林寺の傍ら景雲庵を、休所と為す云云。三条東洞院を北へ行き、中御門を西へ行き、室町を北へ行き、御所の総門に参る云云。供給の食物の事、先規の如く千代徳殿(新〓殿勘解由小路殿)下行を致さる云云。
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『秘本玉くしげ』下 明の援軍十万これみな世々の書にのせたる、かの国中の戸口の数、軍賦の数などを見てもよくしらるること也。すでに豊臣太閤朝鮮御征伐の時、唐土よりの加勢の軍などをも、此方の人は或は五十万百万などと聞て、おびただしきことのやうにいひふらしつれども、大なる相違にて、其時の軍兵始終十万にも過たることはなし。それほどの軍兵も、大抵の事にてはかり催しがたくて、いろいろと世話をやきてやうやうに催し立たるところ、右のごとくなりし。これみなかの国の書共に見えたる事也。さてかの時の戦ひは、此方にも小西の如き臆病神のつきたりし衆もありつればこそ、まれまれには負軍もありつれ、左様のききおぢだにせずば、始終毎度十分の勝たるべし。
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『玉勝間』九の巻 玉津島の神又玉津島明神は、日前宮なりと云う説も有る、それも摂社なりしことを、さは誤り伝えたるなり。右の事どもを合わせて考うるに、玉津島の神は、疑い無く神功皇后なるべく思わるるなりと云えり。この考えなお事長きを、今ははぶきつづめて出だせり。この秀栄と云いしは、若山の人にて、近き頃みまかりぬとぞ。このふみは、それが甥なる、長原の忠睦と云うが、見せたりしなり。
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『玉勝間』八の巻 玄蘇と云ひしほうし豊臣の太閤の朝鮮伐の時に、その命をうけ給わりて、明の国にまかり渡りて、その国王にも逢いて、筆談などして、かの国の書にも見えたる、玄蘇と云いし禅ぼうしは、筑前の国宗像の郡西郷と云う所の人にて、伊豆の国の伊東の祐〓が末なりし者の、筑前に来り住めりしが子孫に、河津新四郎隆業と云いし人の子なり。天文六年に、此西郷に生れ、後には対馬に住めり。此僧の詩文の集を、仙巣稿と云う。慶長十六年十二月二十二日に、七十五にして、対馬にてみまかれりと、かの筑前続風土記に記せり。
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『玉勝間』十一の巻 田舎の神社に高き位階を授らるる事同記に云わく、同五年九月廿九日、この日贈位宣下行わるるなり。(西宮左大臣高明公)備前国において勧請し奉る神と云云。件の社この間託宣有り、某村人に属きて、祟りを成さしめ給い候間、山科中将顕言朝臣に就きて、地下より申し請うる仁有り。奏聞を経て、勅許有りてこれを行わる、従一位を贈らるる者なり。夜に入りてその儀有り云云。これは贈位の例とはおぼえず。ただ神に位を授け給えるにこそ有れ。またすべての事のさま、古に違いて、近き世のさまなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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