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秘本玉くしげ / 下 蔚山の籠城

さて加藤主計頭殿の蔚山に籠城せられしときに、明の寄手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど嚴重なりし事にて、朝鮮の諸人おどろき感じて、たのもしく思ひ悅びしか共、久しく攻てつひにかの城を落すことあたはず、あまつさへはてには行長が後詰に切立られて、蜘の子をちらすが如く、とるものもとりあへず我先にと逃去りしは、あさましかりける有樣なりき。すべて唐土は何事もみなかくのごとくにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、實用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし。殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、かの國の書に見えたるを、それさへ右の如くあさましき敗軍に及びたりしを思ふべし。又此方戰國のころ、西國邊のあぶれ者ども唐土へ渡りて濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と稱して殊の外に恐れ、每度大に手にあまりて靜めかね、國中の大騒動なりし事也。

新字:さて加藤主計頭殿の蔚山に籠城せられしときに、明の寄手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど厳重なりし事にて、朝鮮の諸人おどろき感じて、たのもしく思ひ悦びしか共、久しく攻てつひにかの城を落すことあたはず、あまつさへはてには行長が後詰に切立られて、蜘の子をちらすが如く、とるものもとりあへず我先にと逃去りしは、あさましかりける有様なりき。すべて唐土は何事もみなかくのごとくにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、実用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし。殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、かの国の書に見えたるを、それさへ右の如くあさましき敗軍に及びたりしを思ふべし。又此方戦国のころ、西国辺のあぶれ者ども唐土へ渡りて濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と称して殊の外に恐れ、毎度大に手にあまりて静めかね、国中の大騒動なりし事也。

書き下し

さて加藤主計頭殿の蔚山に籠城せられしときに、明の寄手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど厳重なりし事にて、朝鮮の諸人おどろき感じて、たのもしく思ひ悦びしか共、久しく攻てつひにかの城を落すことあたはず、あまつさへはてには行長が後詰に切立られて、蜘の子をちらすが如く、とるものもとりあへず我先にと逃去りしは、あさましかりける有様なりき。すべて唐土は何事もみなかくのごとくにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、実用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし。殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、かの国の書に見えたるを、それさへ右の如くあさましき敗軍に及びたりしを思ふべし。又此方戦国のころ、西国辺のあぶれ者ども唐土へ渡りて濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と称して殊の外に恐れ、毎度大に手にあまりて静めかね、国中の大騒動なりし事也。

現代語訳

さて加藤主計頭殿(加藤清正)が蔚山に籠城なさった時に、明の寄せ手の楊鎬の軍立て・軍法は、古今に比類がないというほど厳重なことで、朝鮮の人々は驚き感心して、頼もしく思い喜んだけれども、長く攻めてついにあの城を落とすことができず、そればかりか果てには行長の後詰(救援の軍)に切り立てられて、蜘蛛の子を散らすように、取る物も取りあえず我先にと逃げ去ったのは、あさましい有様であった。すべて唐土は何事もみなこのようであって、議論や法術はまことに巧みに聞こえるけれども、実用に至ってはそうでもない事は、この一事をもっても推し量るべきである。ことにあの蔚山の城を攻めた時の軍には、唐土・朝鮮の全力を尽くしたということが、あの国の書に見えているのに、それでさえ右のようにあさましい敗軍に及んだことを思うべきである。またこちらの戦国の頃、西国辺りのあぶれ者どもが唐土へ渡って乱暴狼藉をした事が、明の代の書どもに多く見えていて、倭寇と称してことのほかに恐れ、毎回大いに手に余って鎮めかね、国中の大騒動であった事である。

解説

唐土の軍は議論や法術ばかり巧みで実用に弱い、という主張の実例として、宣長は慶長の役の蔚山籠城戦を挙げる。明の楊鎬の陣立ては比類ないほど厳重で朝鮮の人々を喜ばせたが、加藤清正の籠る城を落とせず、ついには救援軍に切り立てられて潰走した。しかも唐土・朝鮮の全力を挙げた戦であったと、かの国の書にある。さらに戦国期、西国のあぶれ者が大陸を荒らした倭寇に明が手を焼いたことも挙げる。宣長の史実の扱いには日本びいきの色が濃いが、要は見事な構えと実際の強さは別物だということである。立派な計画書を書く組織が、現場で勝てているとは限らない。

この章句が説くこと

蔚山加藤清正倭寇実用法術

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