名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 退く敵を見て誘いを疑う
○清正、蔚山に籠りし時、一日黎朗、敵櫓を火にして悉く退く、城兵競つて追擊んとす。清正追ふこと勿れ、彼我を誘するなりと言て、城に上り臨觀す、果して薄暮に及び、樹陰崖間に伏する所の兵、皆出で合圍すること奮の如し、兵士、君何を以て其僞り退を知り給ふと言ふ。清正大軍悉く退くに、一の後殿なし、是眞に退くものにあらず、且つ櫓を火にし、更らに其退を知らしむ、是其僞を知る所なりと言はれけり。 ○蔚山に籠りし時、明兵前の山より三町餘を隔て、大銃を外郭に打入る、清正が兵に中りて胴中より二つに斷れたり。清正士卒を制して躁がしめず、明兵又一丸を發す。此丸空中に飛ぶ、清正士卒に令し、大に躁て城中に引入らしむ。明兵城中の騷動を見て、大銃を釣瓶に放つに、皆空中に飛べり、軍中清正の膽智に服せり。 ○征韓の役、清正の軍勢敵を切りあぐみたる時に、清正馬上にて、何人切倒したるや筭へ見よと言ふ時、刀の直なるにては、當り弱く人倒れず、能き程の反りにては切れずと雖も、倒れずと言ふことなしとぞ。 ○清正、朝鮮の兩王子を擒にし、能く之を遇す。依て王子、朝鮮に歸るの日、清正の臣、加藤右馬允に寄するの書に其慈悲如佛。眞個日本中好人也。又後日若對日本及計頭。復發雜談。少有背負之意。非人情也。天地鬼神。共罰之矣。等の語あり。其敬慕せらること斯の如し。
新字:○清正、蔚山に籠りし時、一日黎朗、敵櫓を火にして悉く退く、城兵競つて追撃んとす。清正追ふこと勿れ、彼我を誘するなりと言て、城に上り臨観す、果して薄暮に及び、樹陰崖間に伏する所の兵、皆出で合囲すること奮の如し、兵士、君何を以て其偽り退を知り給ふと言ふ。清正大軍悉く退くに、一の後殿なし、是真に退くものにあらず、且つ櫓を火にし、更らに其退を知らしむ、是其偽を知る所なりと言はれけり。 ○蔚山に籠りし時、明兵前の山より三町余を隔て、大銃を外郭に打入る、清正が兵に中りて胴中より二つに断れたり。清正士卒を制して躁がしめず、明兵又一丸を発す。此丸空中に飛ぶ、清正士卒に令し、大に躁て城中に引入らしむ。明兵城中の騷動を見て、大銃を釣瓶に放つに、皆空中に飛べり、軍中清正の胆智に服せり。 ○征韓の役、清正の軍勢敵を切りあぐみたる時に、清正馬上にて、何人切倒したるや筭へ見よと言ふ時、刀の直なるにては、当り弱く人倒れず、能き程の反りにては切れずと雖も、倒れずと言ふことなしとぞ。 ○清正、朝鮮の両王子を擒にし、能く之を遇す。依て王子、朝鮮に帰るの日、清正の臣、加藤右馬允に寄するの書に其慈悲如仏。真個日本中好人也。又後日若対日本及計頭。復発雑談。少有背負之意。非人情也。天地鬼神。共罰之矣。等の語あり。其敬慕せらること斯の如し。
書き下し
○清正、蔚山に籠りし時、一日黎朗、敵櫓を火にして悉く退く、城兵競つて追擊んとす。清正追ふこと勿れ、彼我を誘するなりと言て、城に上り臨觀す、果して薄暮に及び、樹陰崖間に伏する所の兵、皆出で合圍すること奮の如し、兵士、君何を以て其僞り退を知り給ふと言ふ。清正大軍悉く退くに、一の後殿なし、是眞に退くものにあらず、且つ櫓を火にし、更らに其退を知らしむ、是其僞を知る所なりと言はれけり。 ○蔚山に籠りし時、明兵前の山より三町餘を隔て、大銃を外郭に打入る、清正が兵に中りて胴中より二つに斷れたり。清正士卒を制して躁がしめず、明兵又一丸を發す。此丸空中に飛ぶ、清正士卒に令し、大に躁て城中に引入らしむ。明兵城中の騷動を見て、大銃を釣瓶に放つに、皆空中に飛べり、軍中清正の膽智に服せり。 ○征韓の役、清正の軍勢敵を切りあぐみたる時に、清正馬上にて、何人切倒したるや筭へ見よと言ふ時、刀の直なるにては、當り弱く人倒れず、能き程の反りにては切れずと雖も、倒れずと言ふことなしとぞ。 ○清正、朝鮮の兩王子を擒にし、能く之を遇す。依て王子、朝鮮に歸るの日、清正の臣、加藤右馬允に寄するの書に其慈悲如佛。眞個日本中好人也。又後日若對日本及計頭。復發雜談。少有背負之意。非人情也。天地鬼神。共罰之矣。等の語あり。其敬慕せらること斯の如し。
現代語訳
清正が蔚山に籠もっていたとき、ある夜明け、敵が櫓を焼いてことごとく退きました。城兵は競って追撃しようとしました。清正は、「追うな。彼らは我が方を誘っているのだ」と言って、城に上って見渡しました。はたして夕暮れに及ぶと、樹陰や崖の間に伏せていた兵が皆現れ、以前のように包囲しました。兵士は、「君は何によって、その偽りの退却だと知られたのですか」と言いました。清正は、「大軍がことごとく退くのに、後備えが一つもない。これは真に退くものではない。しかも櫓に火をかけ、さらにその退きを知らせている。これが偽りだと知るところだ」と言われました。 蔚山に籠もっていたとき、明兵が前の山から三町余り隔てて、大砲を外郭に撃ち込みました。清正の兵に当たり、胴の中ほどから二つに断たれました。清正は士卒を制して騒がせず、明兵がまた一弾を撃ちました。この弾は空中に飛びました。清正は士卒に命じて、大いに騒いで城中に引き入れさせました。明兵は城中の騒動を見て、大砲を釣瓶撃ちに放ちましたが、皆、空中に飛びました。軍中は清正の胆智に服しました。 朝鮮の役で、清正の軍勢が敵を切りあぐねたとき、清正は馬上から、「何人斬り倒したか数えてみよ」と言いました。そのとき、「刀がまっすぐなものでは、当たりが弱く人が倒れず、ほどよい反りがあれば、切れなくとも倒れないということがない」と言ったということです。 清正は朝鮮の両王子を捕らえたが、よくこれを遇しました。そのため王子は朝鮮に帰る日、清正の臣の加藤右馬允に宛てた書に、「その慈悲は仏のようです。まことに日本中の好人です。後日もし日本に対して、計略を立て、再び雑談を発し、少しでも背負う(背く)意があれば、人情ではありません。天地鬼神も共にこれを罰するでしょう」などの語がありました。その敬慕されることは、このようでした。
解説

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『秘本玉くしげ』下 蔚山の籠城さて加藤主計頭殿の蔚山に籠城せられしときに、明の寄手楊鎬が軍だち軍法は、古今に比類なしといふほど厳重なりし事にて、朝鮮の諸人おどろき感じて、たのもしく思ひ悦びしか共、久しく攻てつひにかの城を落すことあたはず、あまつさへはてには行長が後詰に切立られて、蜘の子をちらすが如く、とるものもとりあへず我先にと逃去りしは、あさましかりける有様なりき。すべて唐土は何事もみなかくのごとくにて、議論法術はいと巧に聞ゆれ共、実用に至てはさもあらざる事、此一事を以てもおしはかるべし。殊にかの蔚山の城を攻し時の軍には、唐土朝鮮の全力をつくしたりしよし、かの国の書に見えたるを、それさへ右の如くあさましき敗軍に及びたりしを思ふべし。又此方戦国のころ、西国辺のあぶれ者ども唐土へ渡りて濫放狼藉せし事、明の代の書共に多く見えて、倭寇と称して殊の外に恐れ、毎度大に手にあまりて静めかね、国中の大騒動なりし事也。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 明の使者を一蹴する○文祿二年正月、明將宋應昌等議して曰く、秀吉の將帥皆王城に萃まりしに、獨り加藤清正孤軍を以て咸鏡に在り、聲問通ぜず、虛喝して取るべきなりとありて、辨士の馮仲纓をして、譯を以て清正に說かしめて曰く、和故なく韓を攻む、韓、急を明に告げり。爰を以て明皇帝大に怒り、大兵を遣はし、韓を求め、平壤を復し、開城を復し遂に國都を復し、宇喜田、小西を擒にし、盡く其兵を逐へり。又琉球、暹羅の諸國をして、和境を厭せしむ、然るに足下猶韓を守り、誰の爲めにせんと欲するや、皇帝足下の高義を聞き、使臣をして、爲めに之を報告せしむ。足下の計を爲すに、速に韓の王子を返し、軍を收め、和に歸るに若くはなし。否らずんば、則ち明軍四十萬韓兵を驅りて東し、直ちに安邊に萃まらば、足下明に服せんと欲すと雖も、得んやと。清正之を聞き、侍史をして、答て曰く、清正國命を奉じて戰ふことを知り、明命を聽て、和することを知らざるなり。歸り明主に語れ、我に敵甲凋兵あり、近頃事なきを苦しむ、貴國來り伐つ、旣に命を聞けり、且つ咸鏡の途險阨にして、騎比行すべからず、卒列を爲すを得ず。兵の來る日に一二萬のみ。吾迎て之を擊つに、日に一萬を殺さば、四十日にして之を殲さん、日に二萬を殺さば二十日にして之を殲さん、旣に殲して後ち、西を指し遼を渡り、燕を破り、大駕を海東に奉じ而る後、清正以て復命すべしと。仲纓大に恐愕して遁走せり。