明訓一班抄抄録 / 夷狄を近付べからざる事・九州の守りを担う者と役割の意味づけ
大猷公甲斐庄喜左衛門長崎奉行被仰付時日本の內にては御當家御亡び他へ天下を取ても是は御一分の御恥ばかりなり、異國へ日本の地一寸たりとも遺しては日本の恥なり、左候得ば大切の事なる事ぞ、隨分油斷仕るまじき山仰也、土井利勝が家老早川彌五左衛門物語りに、利勝道春に尋けるが、近年黑田鍋島に異國の押を被仰付るなり、加古も箇樣なる事度々是有事歟と申され候へば、道春申けるは公方樣は(大猷公也)名譽不例の明君にてましますと恐れながら奉存候、上代にも九州の押は代々御座候、異國に押と申は、人皇十五代神功皇后三韓御退治なされ、大矢田宿禰を朝軍として新羅に留置、三韓の下知をさせ給ふ、武內を九州に留置れ異國を押させ給ふ、筑後の高良大明神とて是なり、然れども異國の押故、十月此神は出雲に至り給ずとて、筑後にては十月を神月と言よし語りければ、利勝申は、扨〱公方樣は神功皇后にて、黑田鍋島は高良大明神にて候、目出度御事と申されける時、道春御尤の儀に候、むかし神功皇后の御宇、吳の孫權弓矢にほこり、日本へ大軍を渡す、武內九州に在故、日本へ着岸せず歸帆す、是日本の譽也、文永に渡る蒙古の船無事にて歸帆は日本の恥也、仔細は、千艘の船無事にて歸帆せし故、重て建治に大兵渡りたり、然れども日本運強くあるや、八月朔日大風吹て、蒙古の船悉く海中へ沈たりけれども、重ての事は有ても、大風は頼みにならずと相考吟味の由、去程に文永建治にも文王の矢を渡せしも、秀吉の朝鮮進發も同じ事也、
新字:大猷公甲斐庄喜左衛門長崎奉行被仰付時日本の内にては御当家御亡び他へ天下を取ても是は御一分の御恥ばかりなり、異国へ日本の地一寸たりとも遺しては日本の恥なり、左候得ば大切の事なる事ぞ、随分油断仕るまじき山仰也、土井利勝が家老早川弥五左衛門物語りに、利勝道春に尋けるが、近年黒田鍋島に異国の押を被仰付るなり、加古も箇様なる事度々是有事歟と申され候へば、道春申けるは公方様は(大猷公也)名誉不例の明君にてましますと恐れながら奉存候、上代にも九州の押は代々御座候、異国に押と申は、人皇十五代神功皇后三韓御退治なされ、大矢田宿祢を朝軍として新羅に留置、三韓の下知をさせ給ふ、武内を九州に留置れ異国を押させ給ふ、筑後の高良大明神とて是なり、然れども異国の押故、十月此神は出雲に至り給ずとて、筑後にては十月を神月と言よし語りければ、利勝申は、扨〱公方様は神功皇后にて、黒田鍋島は高良大明神にて候、目出度御事と申されける時、道春御尤の儀に候、むかし神功皇后の御宇、呉の孫権弓矢にほこり、日本へ大軍を渡す、武内九州に在故、日本へ着岸せず帰帆す、是日本の誉也、文永に渡る蒙古の船無事にて帰帆は日本の恥也、仔細は、千艘の船無事にて帰帆せし故、重て建治に大兵渡りたり、然れども日本運強くあるや、八月朔日大風吹て、蒙古の船悉く海中へ沈たりけれども、重ての事は有ても、大風は頼みにならずと相考吟味の由、去程に文永建治にも文王の矢を渡せしも、秀吉の朝鮮進発も同じ事也、
書き下し
大猷公甲斐庄喜左衛門長崎奉行被仰付時日本の內にては御當家御亡び他へ天下を取ても是は御一分の御恥ばかりなり、異國へ日本の地一寸たりとも遺しては日本の恥なり、左候得ば大切の事なる事ぞ、隨分油斷仕るまじき山仰也、土井利勝が家老早川彌五左衛門物語りに、利勝道春に尋けるが、近年黑田鍋島に異國の押を被仰付るなり、加古も箇樣なる事度々是有事歟と申され候へば、道春申けるは公方樣は(大猷公也)名譽不例の明君にてましますと恐れながら奉存候、上代にも九州の押は代々御座候、異國に押と申は、人皇十五代神功皇后三韓御退治なされ、大矢田宿禰を朝軍として新羅に留置、三韓の下知をさせ給ふ、武內を九州に留置れ異國を押させ給ふ、筑後の高良大明神とて是なり、然れども異國の押故、十月此神は出雲に至り給ずとて、筑後にては十月を神月と言よし語りければ、利勝申は、扨〱公方樣は神功皇后にて、黑田鍋島は高良大明神にて候、目出度御事と申されける時、道春御尤の儀に候、むかし神功皇后の御宇、吳の孫權弓矢にほこり、日本へ大軍を渡す、武內九州に在故、日本へ着岸せず歸帆す、是日本の譽也、文永に渡る蒙古の船無事にて歸帆は日本の恥也、仔細は、千艘の船無事にて歸帆せし故、重て建治に大兵渡りたり、然れども日本運強くあるや、八月朔日大風吹て、蒙古の船悉く海中へ沈たりけれども、重ての事は有ても、大風は頼みにならずと相考吟味の由、去程に文永建治にも文王の矢を渡せしも、秀吉の朝鮮進發も同じ事也、
現代語訳
大猷公(家光)は、甲斐庄喜左衛門が長崎奉行を仰せつけられたとき、日本の内で当家が亡びて他へ天下を取られても、それは一分の恥ばかりである。異国へ日本の地を一寸でも遺しては日本の恥である。そうであれば大切なことである。十分に油断しないようにと仰せになりました。土井利勝の家老、早川弥五左衛門の物語に、利勝が道春(林羅山)に尋ねて、近年、黒田・鍋島に異国の押さえを仰せつけられたが、過去にもこのようなことはたびたびあったのかと言われたところ、道春が申すには、公方様(大猷公)は名誉不例(類のない)の明君でいらっしゃると恐れながら存じます。上代にも九州の押さえは代々ございました。異国の押さえと申すのは、人皇十五代の神功皇后が三韓を御退治なさって、大矢田宿禰を朝軍として新羅に留め置き、三韓の下知をさせられ、武内を九州に留め置かれて異国を押さえさせられた。筑後の高良大明神というのがこれです。ただし、異国の押さえのために、十月にこの神は出雲に行かれないと言って、筑後では十月を神月というそうですと語ったところ、利勝は、さてさて公方様は神功皇后で、黒田・鍋島は高良大明神でございます、めでたいことですと申されました。そのとき、道春は、ごもっともです。昔、神功皇后の御代に、呉の孫権が弓矢に誇って日本へ大軍を渡しましたが、武内が九州にいたので日本へ着岸せず帰帆しました。これは日本の誉れです。文永に渡った蒙古の船が無事に帰帆したのは日本の恥です。その理由は、千艘の船が無事に帰ったため、重ねて建治に大兵が渡ってきました。けれども日本の運が強かったのか、八月朔日に大風が吹いて蒙古の船はことごとく海中に沈みましたが、重ねてのことはあっても、大風は頼りにならないと考えて吟味する由です。文永・建治にも文王の矢を渡したのも、秀吉の朝鮮進発も同じことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・情勢の近さを見て備えを決める今明も靜ならず候へば異國の押は仰付らるゝは尤至極に存られ候と申ければ、利勝申は、公方樣其通り聞召れ候故、異國の押を仰付られたるは、名譽不例の上樣にて、昔を今にくりかへし末をしらしめて思召るゝ上は、誠に明君にて候、今日異國より兵起り來るとも、黑田鍋島先達て戰ひ申さば、關の戶が越へ申間敷、定て此兩人衆油斷成間敷也、自然の事有て、御人數を西海へ遣さる共、此兩人萬事手遣手配等心掛の事なれば、俄に仰付られ遣さる御人數にても、掛引勝負人數立大形合點仕ることに候へば是又御爲也、何としても其役人なれば自餘の衆とは格別なりと申されければ、道春申は、誠に學の前に書成るにて候間、其段は大に違ひ申べしと申ければ、利勝申は、上樣に思召さるゝは、御制禁仰付らるゝ黑船よりも、明を心許なく思召さるゝは、明は日本へ近き國也、故に斯の如し、長崎津內に是ある唐船どもは、懷中の毒蛇と少も油斷は成まじき事と思召るゝ、に依て、石火矢數多御預り指置れしぞ、其上日本中の事はたとへ戰負ても其一家のおくれ也、異國の押の儀能すれば日本の譽なり、惡敷する時は日本の恥辱也、是によりて長崎御番人は勝れて大儀と上樣にも思召候、まことに明よりは日本を望みたる事度々なり、云々、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・主の立場が広がるほど用心の範囲も広がる同上意に、人は大小上下共に用心をなすこと第一也、仔細は、予岡崎一城の主たりし時は近所に用心せしぞ、三州の主たる時は近國に用心せしぞ、關八州の主たる時は東海東山北陸三道の治亂を考へしぞ、今更日本の主と成ては諸異國の治亂を聞するぞ、仔細は、異國亂るゝに日本治りたりとて油斷するは、東山義政の茶の湯、大內義隆が學問、今川氏眞の歌道ぞとは、諸異國も治平なれば日本の政道迄なり、若し異國亂とも聞ば、其時に當て能武將を撰び九州に置、異國を押へさすべし、旣に上古神功皇后異國を退治の後、九州に中國との筑後の國に武內大臣を差置れ異國を押へさせ給ふ、是異國の王孫權(齊昭案ずるに、孫權の神明を改んとせし事、後日も林道春の物語あれば、東照宮は道春より聞給ひしなるべけれども、何の書にはへたる事かや、いまだ其書を見ずとなん、上意一に的當の御事故舊記の儘に記すなり)日本を攻むとて數萬人をわたす、しかれども神功皇后三韓退治の後武內大臣九州に居り政道明白高大成る事を聞し、日本の兵と戰ふとも勝利なからんと軍勢竊にかたりしとぞ、異國の兵船半より歸帆す、偏に武內筑紫に有故也、此大臣人皇十二代景行天皇より十七代仁德天皇迄六代の政務二百四十四年棟梁の臣なり、誠に目出度大臣、片時も大內を離れべき大臣ならざれども如此也、尤日本大臣の始にて、歲三百六十にして死なれたり、筑後國高良大明神是也
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・油断と備えの教訓を元寇と朝鮮の例から読む其後人皇八十九代龜山院御宇、文永年中鎌倉將軍七代目惟京、執事時宗代、蒙古國北狄起て中華を治め元と號す、日本を從へんと、度々書翰を贈り使を立てけれども、日本にて不請、是に依て日本の武勇試に、兵船千艘渡し、九州の內を亂妨すれども、はか〱しき一戰もなく、矢種盡し故、千艘の船無事に歸帆して、日本の武威聞しよりも患也とて、建治四年(元本の儘に認るといへども弘安四年の誤りなるべし)に蒙古兵船六萬艘渡し、平戶五龍山へ着岸す、然るに八月朔日大風吹て蒙古の船こと〲く海中に吹流し、生殘る兵をば八方に散す、是偏に元の世祖弓箭に取ほこりたる故也、文永の千艘の船を手痛く當らざるは日本弓箭のおくれ也、是を手痛當ては建治の兵船は渡海せまじきぞ、右の大風は頼にならざるぞ、然る時は良將を撰み九州に置て手痛く當てよ、尤萬里の海上一帆に來る間油斷する事なかれ、乘ての覺悟第一ぞ、仔細は身に灸をすると、又飛火の心得にて、油斷と油斷せざるとはよろづ心得少々もあらば、木曾判官を釜山浦に置き日本勢を押へさせば、朝鮮進發むなしと有べけれ共、朝鮮數年治平にて、武勇悉く取失ひ、柔弱美麗なりし故、何の仔細なく攻亡されたり、秀吉彼の柔弱成事を內に聞て、弓矢に取ほこつての事なり、總て用心は太平の時成ぞ、寸善尺魔とて、異國太平成時は日本より攻か、日本治平なる時は異國より攻か、平家太平成時は源氏より攻め、源氏太平なれば平家より攻るぞ、譬へば隣家の焼るに我家の用心せざるは愚なりとの上意也、同上意に、日本國共に武道の捨らざる事、我が朝の本意なり、其故は日本太平にして武道怠る時は異國より日本を窺へ、又異國太平にして武道怠る時は韃靼日本より大唐を伺ぞ、彼の秀吉朝鮮の軍も是也、然ば日本武將は此心得第一也、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・裏門の備えを手厚くすべきという斉昭の意見齊昭謹で按ずるに、土地とても異國より日本を窺ふの患あり、故本文のごとく武內大臣を筑紫差置れ、又、三代將軍家御代には異國船の沙汰も今の如くには無之に、大猷公黑田鍋島等へ被命、防禦永續被仰けるは、深遠に御仕置と奉感も、餘り有る事也、扨、又、大猷公上意の趣、明は日本へ近き國なれば黑船よりも御心許なく被思召よし、愼ながら御尤至極なる御事也、然るに明國も其後北狄より攻めとられ、今淸國と改めたれば、其土地は昔も今も日本へ近きは違ることなかれ、長崎の押は今以嚴重に戒め給ふ事當然の事なれ共、蝦夷狄は至て北狄へ近く、且昔と違ひ北狄強大になりて、追ゝ蝦夷地を蠶食すれば、此儘差置れなば末終に大患となるべし、本朝は四面海なれば、何れの浦々津々とても同樣ながら、譬へば長崎は表門にて、蝦夷は裏門の姿なり、長崎には黑田鍋島のみならず、隣國も大名多ければ、自然の事有之ても、御手厚なれども、蝦夷の地は嚴寒麁土地なりとて、町人風の一小島南方に城郭を搆へたるのみなれば、北狄渡來るにおゐては、一戰もなく只渡し遣候樣可相成、昔はカンサツカ迄日本の地の由なりしが、今はラツコ島カラフト島の北邊は皆夷狄に被奪たりと聞、本文の如く東照宮御意にも異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰び異國を押させよとの御事なり、此御遺圖を續せ給ひ、
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『実武一家言抄録』・外寇なき実拠と倭寇(二)右に說たる如く、海外の□□皆我日本の豐饒なるを羨みて併呑せんと欲る者多し、然共是迄數百年來絶て外寇といふ者無りし事は何の故ぞと考るに大に實據の有事なり、其實據とは古し神功皇后親く兵を將ひて大海を渡り、高麗新羅百濟任那等を征伐し玉ひて、悉く其酋を降し、日本の屬國と爲し、威名一時西土を震動す、其後四五百年の間、朝鮮は皇國の屬地にして、時々叛く者有每に兵を出して是を討ち、三韓の間に勇戰せし事幾度といふ事を知らず、其後後宇多天皇の弘安年中に、蒙古の世祖忽必烈既に南宋を滅して支那を一統し、連勝の勢に乘じて皇國をも取らん事を欲して、十餘萬の精兵を以て西海道に寇せしが、九州の武士に打破られて全軍悉く沒し、死せずして逃歸る者僅に三人也き、其後伊豫國の住人久留島野島因島の鄕士等、各其一族を集め徒黨を相結び年々船を海外に出し、外國を劫妨して財物賃品を奪取、以て各自の家を富し、是を以て産業として海賊を働きし事多年の事也、
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『明訓一班抄抄録』・夷狄を近付べからざる事・木刀をさす武士と外への備えの先手東照宮上意に、武家は武道を忘れざるが能ぞ、仔細は、太平なりとて、武家公家の如くに成て柔弱美麗を好むは、たとへば眞劔は用なしとて木刀をさすに似たり、又將軍を始め國主領主勇を好み軍法を不用は木刀を使ふに刀をさすに同じ、武道を好まずして柔弱を事とするは木刀に木小刀をさすに同じ、如斯の武士は、大身程味方にして災と成り、敵にして味方に大利あり、又小身たりとも武道の達人は、敵にして慢られず、味方にして頼みあり、少人數にて大高の先手に用ひてもおしからず、大勢なりとて武道不案內の大將を先手に用る事なかれ、先手の大軍の崩れかゝりたるが味方の禍と成ば、自然の事有る時は先手を能ゝ詮議せよ、昔し異國より日本を攻んとはかる時は、武內大臣九州に有て夷國を押へられたるも、是則劔の利をかたどりての事なり、劔は切先のかねを第一に吟味するぞ、仔細は、切先は先早く逢て或は切り或は突き肝要の處なり、此故に日本の大先手に、神代には住吉大明神、人代に武內大臣を置れたるぞ、今以此心を失ふべからず、右にも云ひ聞せるが如く、異國亂るゝと聞ば、九州に能武將を撰み、異國を押させよ、日本中の軍は勝負ともに其一家ばかりの盛衰ぞ、和漢のあらそひは、負たる時は日本國の恥、勝てば日本の譽れぞ、異國の取あひ程大事なることなし、若し異國亂れば此心得にて押へを撰び給へといふとぞ、文永弘安に異國人渡りしも、日本數代治平の事を元の世祖聞、蒙古武勇に誇りての事ぞ、文錄の朝鮮征伐の事も、朝鮮數代治平成る故柔弱にして武道の事を忘れしと、秀吉武勇に誇られての事ぞ、然るに武道不案內のものは太平には武道を取失ひ彼の木刀を用ゆるに似たり、木刀も形は刀に似たれども眞の用には立ず、武道不案內の武士は形は武士にして用は百姓町人に劣れり、此故に武家武道に達するを家職を知るといふ、天下の大寶也、云々、」

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