玉勝間 / 十二の巻 汁と云ふ饗
甘露寺元長卿記に、於姉小路三位亭有汁、また、內藏頭有招事、汁張行、など見えたり。今の世にも、田舍にて、汁と云ふことあり。客おのおの、飯をばおのが家より持來て、其家には、菜と汁をまうけて、饗するなり。國によりて、汁講とも云ふとぞ。
新字:甘露寺元長卿記に、於姉小路三位亭有汁、また、内蔵頭有招事、汁張行、など見えたり。今の世にも、田舎にて、汁と云ふことあり。客おのおの、飯をばおのが家より持来て、其家には、菜と汁をまうけて、饗するなり。国によりて、汁講とも云ふとぞ。
書き下し
甘露寺元長卿記に、姉小路三位の亭に於て汁有り、また、内蔵頭招く事有り、汁張行す、など見えたり。今の世にも、田舎にて、汁と云うことあり。客おのおの、飯をばおのが家より持ち来て、その家には、菜と汁をもうけて、饗するなり。国によりて、汁講とも云うとぞ。
現代語訳
『甘露寺元長卿記』に「姉小路三位の邸で汁があった」、また「内蔵頭のお招きがあり、汁を催した」などと見えている。今の世でも、田舎で「汁」ということがある。客はそれぞれ飯を自分の家から持って来て、招く家ではおかずと汁を用意して、もてなすのである。国によっては「汁講」とも言うそうだ。
解説
「汁」と呼ばれる寄り合いのもてなしが、室町時代の公家の間で行われていたことを示し、それが宣長の時代の田舎の習俗に残っていると指摘した段である。戦国期の公家甘露寺元長の日記には、公家の邸で「汁」を催した記事が見える。宣長の時代の田舎では、客が各自の飯を持ち寄り、招く家が菜と汁だけを用意してもてなす集まりを「汁」「汁講」と言った。負担を分け合いながら人と人が集う、つましくも温かい仕組みである。宣長は、都の公家の記録と地方の今の習わしを結びつけて、雅な世界の習俗が田舎に形を変えて残っていることを見出している。古い言葉と同じく、古い習わしもまた地方に生き残るという、国学の民俗への関心がよく表れている。
関連する章句
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