玉勝間 / 十二の巻 三体詩談義、平家物語をかたる事
中御門宣胤卿記に、文龜二年二月廿九日、參一條殿、三體詩談義也。逸藏主談之云云。夜又參、彌一撿校語平家、爲聽聞之也。
新字:中御門宣胤卿記に、文亀二年二月廿九日、参一条殿、三体詩談義也。逸蔵主談之云云。夜又参、弥一撿校語平家、為聴聞之也。
書き下し
中御門宣胤卿記に、文亀二年二月廿九日、一条殿に参る、三体詩談義なり。逸蔵主これを談ず云云。夜また参る、弥一検校平家を語る、これを聴聞せんが為なり。
現代語訳
『中御門宣胤卿記』に、「文亀二年(1502)二月二十九日、一条殿に参上した。三体詩の談義である。逸蔵主がこれを講じた……夜また参上した。弥一検校が平家を語るので、それを聴聞するためである」とある。
解説
室町時代末の公家の一日を伝える記録から、学問と芸能の場を拾い出した段である。一条家では、昼に禅僧の逸蔵主が『三体詩』(唐詩の選集)の講義を行い、夜には弥一検校が平家物語を語った。三体詩は五山の禅僧たちが盛んに講じた漢詩の手本で、公家の教養にも欠かせないものであった。宣長は前にも康富記から平家語りの記事を引いており、琵琶法師の語りがどのように公家社会で享受されていたかに関心を寄せていた。昼は漢詩の講義、夜は平家の語りという取り合わせは、当時の貴族の文化生活の幅の広さを示している。漢籍の学びと日本の語り物が、同じ屋敷で一日のうちに楽しまれていた。
関連する章句
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