玉勝間 / 十二の巻 年のくれの煤払
同記、寶德元年十二月廿日、參給事中文亭、煤拂也云云と見え。中御門宣胤卿記にも、文明十二年十二月九日、今日禁裏御煤拂と有り。
新字:同記、宝徳元年十二月廿日、参給事中文亭、煤払也云云と見え。中御門宣胤卿記にも、文明十二年十二月九日、今日禁裏御煤払と有り。
書き下し
同じ記、宝徳元年十二月廿日、給事中文亭に参る、煤払なり云云と見え。中御門宣胤卿記にも、文明十二年十二月九日、今日禁裏御煤払と有り。
現代語訳
同じ記(康富記)の宝徳元年(1449)十二月二十日の条に「給事中の文亭に参上した。煤払いである」うんぬんと見え、『中御門宣胤卿記』にも、文明十二年(1480)十二月九日に「今日、禁裏の御煤払い」とある。
解説
年の暮れの大掃除「煤払い」が、室町時代にすでに行われていたことを二つの記録で示した段である。一つは中原康富が知人の家の煤払いに出向いた記事、もう一つは公家中御門宣胤の日記に見える宮中の煤払いの記事で、日付はいずれも十二月の中下旬である。江戸時代には十二月十三日を煤払いの日とする習いが広まり、江戸城でもこの日に行われていた。宣長の時代の人々にとっても、年末の欠かせない行事であった。煤払いは単なる掃除ではなく、年神を迎えるために家を清める神事の意味を持っていたとされる。宣長は、身近な年中行事の古い記録を二つ並べるだけで、その行事が数百年続いてきたことを示している。
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記中御門の権大納言宣胤の卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午)、小朝拝・元三の御薬、乱中より今に至るまで十余年停止す。節会・諸社の祭・諸公事、悉く以て十余年停止す。また曰く、同十日、室町殿年始の参賀、毎年の式日なり、云々。摂家・清華、乱前は悉く車に乗るなり、今は悉く板輿なり、説くべからざるの為体、末世の至極、無力の者か。また曰く、二月廿一日、今日春日祭なり、乱中乱後、諸社の祭悉く停止す、然りと雖も此の祭に於いては、寺門として、上卿并びに諸司等に下行を致し、毎年両度、今に懈怠無し。また曰く、三月廿六日、今日県召除目の初夜なり、乱中一箇度(文明七)行わる、今度宰相中将殿の御昇進に依りて、武家として申し行わるる者なり、公卿・殿上人悉く少分の訪を付けらる、但し用脚未だ到らざるの間、各々半分たるべしと云々、関白五千疋(但し半減の数)、執筆二千疋、其の外公卿・殿上人各々三百疋(但し半分なり)、惣用三万疋と云々。いく疋と有るはみな銭なり。また曰く、同四月十五日、召しに依りて参内す、風雅集書き進ずべきの由、民部卿忠富・中将を以て仰せ下さる、御本・料紙(十六帖)之を下さる。また曰く、九月二日、参内す云々。唐鏡の校合有り。また、十月三日、今日禅閤参内し、江次第を談じ申さると云々。同十日、新関停廃の為、土一揆蜂起して通路を塞ぎ、北白川辺に集会し、関所を焼き払う、内裏修理料と号して、乱後七口所々に新関を立てらるるなり、武家自ら之を用うるの外、修理に於いては沙汰に及ばず、諸人の歎く所なり。また、十三日、参内す云々。同じく参会して河海抄を校合せらる。
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『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記また曰く、同十二月二十日云々。時に皇居は土御門殿なり、乱後修理有り、去年十二月七日、日野侍従政資の亭より還幸す。また、文亀二年正月一日(乙亥)節会、世乱以後、長享三年に至るまで、廿二年退転す、延徳二年再興す、近年また退転す、当年代始に依りて、御再興せらるる所なり、去年は諒闇に依りて平座たり。また、同二日、去夜勧修寺中納言、回覧の折紙を以て、年始歳末の礼参らしめざる者は、知行覚悟有るべきの由、室町殿仰せ候、当代大略参らざるの間、此の御沙汰に及ぶ。この年始歳末の礼は、室町殿へ、公卿たちの参らるる事なり。覚悟有るべしとは、今の世の語にも、覚悟せられよと云うと同じ、また曰く、同二月十日、去年越前に下し遣わす使者、今日上る、遅々以ての外の事なり、河合荘(内裏御料所)御年貢三千疋、知行分杣山荘分三千疋(乱以前は請切万四千疋なり)到来す。など有り。これらは、書ども読むとて、ふと心にとどまるふし共の有るを、これかれと、いささかづつぬき出でて書けるなり。乱れたりし世ほど、何事もいたく衰えたりしさましるせるを読めば、いと悲しくて、ほとほと涙も落ちぬかし。今云々と書けるに二よう有り。そはまづ云々とは、古き書共には、語をはぶきたる所に書けるを、中昔より近き世の物には、となりと云えりなど云うべき所に書けり。
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『玉勝間』六の巻 朔日の礼中原の康富の記に、嘉吉二年七月一日、伏見殿に参る、また三条殿に参る、皆朔日の礼なり、とあり。
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『玉勝間』十の巻 人の出去し跡を掃ことを忌ム事人の出で行きしあとを掃く事をいむは、葬の出でぬる跡をはくわざの有る故なり。同じ記に久寿二年十二月十七日、伝え聞く、今夜亥の刻、高陽院入棺云々、即ち福勝院に遷し奉る云々、出御の後、民部大夫重成、竹箒を以て御所を払う。
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『玉勝間』八の巻 人の立いにしあとを掃ことを忌事人の去し跡を、掃く事をいむは、万葉集にも、十九の巻に、櫛も見じ屋中もはかじ草枕旅ゆく君をいわうと思いて。
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『玉勝間』十三の巻 子日の宴同書に、天安元年春正月乙丑云云、禁中に曲宴有り、これに預かる者、公卿近侍数十人に過ぎず、昔は上月の中、必ずこの事有り、時にこれを子日の態と謂うなり、今日の宴、旧迹を修するなりとある、これは必ず子にあたる日に有るべき事なるに、乙丑の日のところに記されたるは、いぶかし。今思うに、この上に、庚申の日、右大臣良房公上表の文を記し、次に乙丑重ねて上表して曰くとて、その文を記したる次にあれば、件の二度の上表の文を引きつづけて記したるにつきて、その中間の甲子の日にしるすべきが、紛れたるにはあらざるか。
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