玉勝間 / 六の巻 朔日の礼
中原ノ康富ノ記に、嘉吉二年七月一日、參伏見殿、又參三條殿、皆朔日之禮也とあり。
新字:中原ノ康富ノ記に、嘉吉二年七月一日、参伏見殿、又参三条殿、皆朔日之礼也とあり。
書き下し
中原の康富の記に、嘉吉二年七月一日、伏見殿に参る、また三条殿に参る、皆朔日の礼なり、とあり。
現代語訳
中原康富の記に「嘉吉二年七月一日、伏見殿に参上し、また三条殿に参上した。みな朔日の礼である」とある。
解説
毎月一日に目上の家へあいさつに回る「朔日の礼」の習わしを、室町時代の康富記から示した短い一段である。中原康富は朝廷の外記を務めた官人で、嘉吉二年(1442)の七月一日に、伏見殿や三条殿へ参上したと記している。月の初めに主家や上位の家にあいさつに行く習わしは、宣長の時代の武家や商家にも広く残っていた。宣長は評を加えず、今の世の習わしが室町時代にもあったことを示す用例として書き留めた。節目ごとに顔を見せて関係を確かめる、というやり方は、形を変えて今の職場や取引にも残っている。人の結びつきを保つ小さな儀礼の、長い歴史を示す記事である。
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