玉勝間 / 十二の巻 八朔の礼、尾花の粥
同記、同五年八月一日云云、八朔禮事、何比ヨリ有之事哉之由、尋申候處、後鳥羽院末方より出來歟、但不得所見慥、所詮先代より沙汰初歟、鎌倉より事起之由、所語傳也。〓家之記、嘉元之比之記、此事見之、近年如此之由注付云云。又今日尾花之粥事、其由來何事哉、自然見及歟之由、令問之給。未見及、未知其子細候由、返答。
新字:同記、同五年八月一日云云、八朔礼事、何比ヨリ有之事哉之由、尋申候処、後鳥羽院末方より出来歟、但不得所見慥、所詮先代より沙汰初歟、鎌倉より事起之由、所語伝也。〓家之記、嘉元之比之記、此事見之、近年如此之由注付云云。又今日尾花之粥事、其由来何事哉、自然見及歟之由、令問之給。未見及、未知其子細候由、返答。
書き下し
同じ記、同じ五年八月一日云云、八朔の礼の事、何の比よりこれ有る事哉の由、尋ね申し候う処、後鳥羽院の末方より出で来たる歟、但し所見慥かならず、所詮先代より沙汰し初むる歟、鎌倉より事起こるの由、語り伝うる所なり。某家の記、嘉元の比の記に、この事これを見る、近年かくの如きの由注し付く云云。また今日尾花の粥の事、その由来何事哉、自然見及ぶ歟の由、これを問わしめ給う。未だ見及ばず、未だその子細を知らず候う由、返答す。
現代語訳
同じ記(康富記)の、同じく(文安)五年(1448)八月一日の条に「……八朔の礼のことは、いつごろからあることかとお尋ね申したところ、『後鳥羽院の末ごろから出てきたものか。ただし確かな所見はない。結局は先代(鎌倉幕府)から行い始めたものか。鎌倉から事が起こったと語り伝えている。ある家の記録、嘉元(1303〜06)ごろの記録にこのことが見え、近年このようであると注記している』とのことだった。また、今日の尾花の粥のことについて、『その由来は何か。たまたま何かで見たことはないか』とお尋ねになった。『まだ見たことがなく、まだその詳しいことを知りません』とお答えした」とある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 朔日の礼中原の康富の記に、嘉吉二年七月一日、伏見殿に参る、また三条殿に参る、皆朔日の礼なり、とあり。
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