玉勝間 / 十一の巻 慈照院大将軍元服の事
同記云、同月十六日、是夜室町殿(左馬頭義成十五歳)御元服、云云。自禁裏、御大刀(平鞘)被進。武家傳奏(中山宰相中將)爲御使、自室町殿、被進內裏御禮物、砂金百兩、(居錄折敷)御劔、銀御馬(黑河毛被置鞍厚總被懸也)等也。御使攝津掃部頭也。持参傳奏亭、傳奏請取之、被進禁裏云云。攝津白直垂折烏子也云云。被進院御所之御禮物、御劔銀御馬也。又傳奏(中山宰相中將親通)御馬御大刀被拜領云云。室町殿御元服第二日也。今日椀飯、畠山次郞(義夏)白直垂也、騎馬三騎、皆白直垂也云云。
新字:同記云、同月十六日、是夜室町殿(左馬頭義成十五歳)御元服、云云。自禁裏、御大刀(平鞘)被進。武家伝奏(中山宰相中将)為御使、自室町殿、被進内裏御礼物、砂金百両、(居録折敷)御剣、銀御馬(黒河毛被置鞍厚総被懸也)等也。御使摂津掃部頭也。持参伝奏亭、伝奏請取之、被進禁裏云云。摂津白直垂折烏子也云云。被進院御所之御礼物、御剣銀御馬也。又伝奏(中山宰相中将親通)御馬御大刀被拝領云云。室町殿御元服第二日也。今日椀飯、畠山次郎(義夏)白直垂也、騎馬三騎、皆白直垂也云云。
書き下し
同記に云わく、同月十六日、この夜室町殿(左馬頭義成十五歳)御元服、云云。禁裏より、御大刀(平鞘)進ぜらる。武家伝奏(中山宰相中将)御使として、室町殿より、内裏に御礼物を進ぜらる、砂金百両(録折敷に居う)、御剣、銀御馬(黒河毛、鞍を置かれ厚総を懸けらるるなり)等なり。御使は摂津掃部頭なり。伝奏の亭に持参し、伝奏これを請け取り、禁裏に進ぜらると云云。摂津は白直垂に折烏子なり云云。院御所に進ぜらるる御礼物は、御剣・銀御馬なり。また伝奏(中山宰相中将親通)御馬・御大刀を拝領せらると云云。室町殿御元服第二日なり。今日椀飯、畠山次郎(義夏)白直垂なり、騎馬三騎、皆白直垂なり云云。
現代語訳
同じ記にこうある。同月十六日、この夜、室町殿(左馬頭義成、十五歳)の御元服があった、とのことである。禁裏(天皇)から御大刀(平鞘)が贈られた。武家伝奏(中山宰相中将)を使いとして、室町殿から内裏へ御礼の品が贈られた。砂金百両(録の折敷に載せる)、御剣、銀の御馬(黒河毛で、鞍を置き厚総を懸けてある)などである。御使いは摂津掃部頭である。伝奏の邸に持参し、伝奏がこれを受け取って禁裏に差し上げられたという。摂津は白の直垂に折烏帽子であったという。院の御所に贈られた御礼の品は、御剣と銀の御馬である。また伝奏(中山宰相中将親通)は御馬と御大刀を拝領されたという。室町殿の御元服の第二日である。今日の椀飯(祝いの饗応)では、畠山次郎(義夏)が白の直垂であった。騎馬三騎で、皆白の直垂であったという。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』十一の巻 室町殿の判の字の事同記に云わく、同六年四月二日、後に聞く、この日室町殿より、伊勢因幡守御使として、仰せ下されて云わく。今月御判始め有るべし、しかるに御判の事、御名字を草に書き成さるるの儀これ有り。或いはまた別字を以て作られ候儀これ有り、何の字を以て用いらるべきや撰び進ずべきの由、これを仰せらる。然りと雖も、先々この事、仰せを蒙らざるか、注し置かざるなり。もしまた記伝儒など撰び進ぜらるるか、伝奏に仰せ合わせらるるが然るべきか、ただまた使いに就きて撰び進ずべきの由、重ねて仰せ下さるべきか、御計らい有るべきの由、返事申さる。その後未だ仰せ出ださるるの旨無しと云云。鹿苑院殿普広院殿両代は、義の字なり。勝定院殿の御判は、慈の字なり。
-
『玉勝間』一の巻 鎌倉右大臣の名みかどより給へる事愚管抄に云わく、千万御前、元服せさせて、実朝と云う名も、京より給わりて、建仁三年十二月八日、やがて将軍宣下申しくだして云々。
-
『玉勝間』七の巻 御即位親王代礼服実躬卿記(一名先人記)に云う、永仁六年十月小十三日(丁卯)天晴れ風静かなり、今日天皇(春秋十一歳)御即位、(官庁なり、)実躬右の親王代に定めらるるの間、巳の剋礼服を着る、先ず烏帽子を着て、理髪す、(小烏帽子なり、随身の烏帽子のごときなり、)次に大口を着る、(例の大口なり、)次に襪を着る、(例の襪二重、上に赤地の錦の襪を着るなり、休組有るべきか、或いはまた之無し、)次に単衣を着る、(例の単、袖を解き放つ、強ちに見えざるの上、小袖の寸法大小の間、無要たるに依るなり、)次に表袴を着る(唐綾を用うべきか、近代絶えてこの儀無し、仍りて例の縮線綾の表袴を着用する所なり、左の親王代もまたかくのごとし、表袴・大口等の腰、恒のごとく之を結ぶ、)次に裳を着る、(深色の顕文紗、表袴より三寸引き上げて之を着る、)次に小袖を着る、(黒櫨、裳より三寸引き上げて之を着る、下帯を以て之を結ぶ、)次に大袖を着る、(麹塵の御綾、織文は雲・唐鳥の丸、小袖より三寸引き上げて之を着る、下帯を以てまた之を結ぶ、大袖の頸紙半ばに当てて之を折る、承久の故大納言の着用かくのごとし、)次に綬を結ぶ、(平緒のごとく前に垂る、総の末は大袖の末の上程に至る、平緒に綬を垂るるの間かくのごとし、経俊は左の腰に垂れ、聊か前方に寄す、総の末は小袖の末に至る、)次に玉佩を付く、(右の腰に付け、下帯に付けて結び付くるがごとし、その末の綴は未だ押し交えず、)次に剣を帯ぶ、(紫檀の平緒、前に垂るる綬少し長く之を垂る、石見より一寸余出だす、後は平緒の下より一寸余出だし見す、)次に玉冠を着る、(冠は頭に合わせて之を調う、仍りて燈心の輪頗る無要の間之を入れず、紫の組緒を耳の後より頸の下に結ぶ、また小さき烏帽子の風口を構う、これ今の要なり、承久の故大納言は里亭より之を着る、)次に笏を取る(須らく牙笏を持つべし、次いでにて持つべからざるの間、置物を以て之に化す、)扇、(紫の扇なり、用意の為に之を懐中す、)已上玉佩の外悉く之を新調すと見ゆ、写し誤れるもじ有りと見えて、読みがたき所々有り。
-
『玉勝間』一の巻 中御門宣胤卿の記中御門の権大納言宣胤の卿記に曰く、文明十二年正月一日(壬午)、小朝拝・元三の御薬、乱中より今に至るまで十余年停止す。節会・諸社の祭・諸公事、悉く以て十余年停止す。また曰く、同十日、室町殿年始の参賀、毎年の式日なり、云々。摂家・清華、乱前は悉く車に乗るなり、今は悉く板輿なり、説くべからざるの為体、末世の至極、無力の者か。また曰く、二月廿一日、今日春日祭なり、乱中乱後、諸社の祭悉く停止す、然りと雖も此の祭に於いては、寺門として、上卿并びに諸司等に下行を致し、毎年両度、今に懈怠無し。また曰く、三月廿六日、今日県召除目の初夜なり、乱中一箇度(文明七)行わる、今度宰相中将殿の御昇進に依りて、武家として申し行わるる者なり、公卿・殿上人悉く少分の訪を付けらる、但し用脚未だ到らざるの間、各々半分たるべしと云々、関白五千疋(但し半減の数)、執筆二千疋、其の外公卿・殿上人各々三百疋(但し半分なり)、惣用三万疋と云々。いく疋と有るはみな銭なり。また曰く、同四月十五日、召しに依りて参内す、風雅集書き進ずべきの由、民部卿忠富・中将を以て仰せ下さる、御本・料紙(十六帖)之を下さる。また曰く、九月二日、参内す云々。唐鏡の校合有り。また、十月三日、今日禅閤参内し、江次第を談じ申さると云々。同十日、新関停廃の為、土一揆蜂起して通路を塞ぎ、北白川辺に集会し、関所を焼き払う、内裏修理料と号して、乱後七口所々に新関を立てらるるなり、武家自ら之を用うるの外、修理に於いては沙汰に及ばず、諸人の歎く所なり。また、十三日、参内す云々。同じく参会して河海抄を校合せらる。
-
『玉勝間』二の巻 天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命同記に、天皇が詔旨と、掛けまくも畏き其の山陵に〓申し賜えと申さく、公卿議り奏さく、明年は、天皇御歳を加え給い漸々、冠の年近くなり給うべし、冠は成人の始めにして、盛礼の嘉事なり、来る正月の吉日良辰に、元服を加え奉りて、人望に叶うべしと奏せり、掛けまくも畏き山陵の広き助けに依りて、平らけく安らけく果たし行わしめ給うべし、故に是を以て此の状を、官位姓名を差し使わして、恐み恐みも申し賜わくと奏す。寛仁元年十二月十九日。
-
『玉勝間』八の巻 御袋人の母を、御袋と云うこと、同じ記に、享徳四年正月九日、今暁室町殿の姫君誕生なり。御袋は大館兵庫頭の妹なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る