玉勝間 / 十二の巻 御所様、大御所
中原康富記に、伏見殿をも、大將軍をも、御所樣と云へる所あり。また嘉吉二年十一月廿六日、參伏見殿、候宮御方御讀、大御所有御出座とも見ゆ。大御所とは、貞成親王後ノ諡後崇光院を申せるなり。
新字:中原康富記に、伏見殿をも、大将軍をも、御所様と云へる所あり。また嘉吉二年十一月廿六日、参伏見殿、候宮御方御読、大御所有御出座とも見ゆ。大御所とは、貞成親王後ノ諡後崇光院を申せるなり。
書き下し
中原康富記に、伏見殿をも、大将軍をも、御所様と云える所あり。また嘉吉二年十一月廿六日、伏見殿に参る、宮の御方の御読に候す、大御所御出座有り、とも見ゆ。大御所とは、貞成親王、後の諡後崇光院を申せるなり。
現代語訳
『中原康富記』に、伏見殿をも将軍をも「御所様」と言っているところがある。また嘉吉二年(1442)十一月二十六日の条に「伏見殿に参上し、宮の御方の御読書にお仕えした。大御所がご出座になった」とも見える。大御所とは、貞成親王、後に後崇光院と申し上げる方を指している。
解説
「御所様」「大御所」という呼び名が、室町時代にどのように使われていたかを記した段である。典拠は外記を務めた中原康富の日記で、そこでは伏見宮家の当主も将軍も等しく「御所様」と呼ばれ、また伏見宮貞成親王が「大御所」と呼ばれている。貞成親王は後花園天皇の実父で、後に太上天皇の尊号を受けて後崇光院と称された人である。宣長の時代には「大御所」といえば隠居した将軍、とりわけ徳川家康を思い浮かべるのが普通だったろう。しかし室町期には、天皇の父である親王にこの呼称が使われていた。尊称が誰に向けられるかは時代によって移り変わる。宣長は古記録の一語から、呼び名の範囲がかつてはもっと広かったことを確かめている。
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