玉勝間 / 四の巻 宮と申す称
天皇の御胤を宮と申す事、古へは皇子皇女にかぎれり。皇子の御子よりしては、宮と申す事無かりき。然るを中ごろよりして、皇子の御子をも申し、近くは親王の御すぢをば、世世すべて宮と申す事となれり。
書き下し
天皇の御胤を宮と申す事、古えは皇子皇女にかぎれり。皇子の御子よりしては、宮と申す事無かりき。然るを中ごろよりして、皇子の御子をも申し、近くは親王の御すじをば、世々すべて宮と申す事となれり。
現代語訳
天皇の御子孫を「宮」と申し上げることは、古は皇子と皇女に限っていた。皇子の御子からは「宮」と申し上げることはなかった。ところが中頃から皇子の御子をも「宮」と申し上げ、近頃は親王の御血筋を、代々すべて「宮」と申し上げることになった。
解説
「宮」という呼び名の範囲が、時代とともに広がったことを述べた一段である。古くは天皇の子である皇子・皇女だけを宮と呼び、孫の代からは宮とは呼ばなかった。ところが中世から皇子の子も宮と呼ぶようになり、近世には親王家の血筋を代々すべて宮と呼ぶようになった、と宣長は言う。江戸時代には伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮のいわゆる四親王家が、世襲で宮号を名のっていた。宣長はその現状を、古の定まりから見れば広がったものとして、事実だけを淡々と記している。称号の意味は、使われるうちに少しずつ範囲を変えてゆく。今の用法を当然とせず、古の使い方と比べて変化を見届ける。宣長の言葉の歴史への目が、称号にも向けられている。
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 小宮同じ書に、建久四、十一、五、同記に云う、今日仁和寺の小宮(高倉院の御子)御灌頂の後朝なり云云。物がたり書どもに、いまだ元服せぬ人を、小君と云えり。これに小宮と有るは、皇子の、童にますほどを申すなるべし。
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『玉勝間』四の巻 女一宮女二宮など申す唱へ女一の宮・女二の宮など申す女の字、音に読みならえれども、栄華物語などに、男一の宮・男二の宮なども有る、男は音には読むべくも有らず、必ずおとこ一の宮などと読むべければ、女も古えはおんな一の宮、おんな二の宮などぞ読みつらむ。ことわりをもて思うにも、字音には読むまじき続きなり。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
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『玉勝間』十三の巻 神社を殊に宮と申す号の事同紀に、貞観九年八月二日、伊勢国の伊佐奈岐伊佐奈弥神に勅して、社を改めて宮と称し、月次祭に預からしめ、并びに内人一員を置くとある。これらによれば、凡て宮と申すと、社と申すとは、尊き卑しき差等ある事なるに、又なべて然るにもあらざるにや。殊なる大社にも、なお社と申して、宮とは申さぬも多きは、いかなる事にか有らむ。
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『玉勝間』十三の巻 諸王の事継嗣令に云う、凡そ皇の兄弟皇子、(女帝の子もまた同じ)皆親王と為す、以外は並びに諸王と為す、親王より五世は、王の名を得と雖も、皇親の限りに在らず。文徳実録に云う、斉衡三年四月甲午、弾正台奏す。五世の王は、王号有りと雖も、皇親の限りに非ず、その朝服の色宜しく王臣の位階に依るべし、これに従う。三代実録に云う、貞観四年四月十二日、詔を下す、参議已上をして、各時政の是非を論じ、世俗の得失を詳らかにせしむ。云云、是より先諸王、二世より四世に至るまで、夏冬の衣服を賜う、人数を限らず、年の数符に随いて、多少を出だしてこれを賜う。或いは五六百人に至る、是の時簿に載せて官に進むる者、四百余人なり。豊前上疏して曰く。諸王の給服、人数定まらず、徒らに帑蔵を費やす、何ぞ紀極無き、望み請うらくは当時の所在を以て、定数と為し、闕くるに随いてこれを補い、転じて過ぐるを聴さざらんことを、これに従う。豊前とあるは、豊前王と云う人の名な又同十二年二月廿日、公卿奏して諸王の季禄を減じ、兼ねて給禄の定額を立てんことを請う日、云云、今府帑稍密にして貢職少なし、当に諸王の禄を停めて、救弊の計を存すべき者。云云、但し専らこれを停むれば則ち皇親を疎んずるに似たり、全くこれを給えば、則ち国用を闕くべし云云、又王氏蕃昌して、曩日に万倍す、その禄賜を計るに、費やす所支え難し、伏して望むらくは当時禄に預かる者、四百二十九人を、定員と為さんことを云云奏可す。また元慶四年十月廿七日、摂津国河辺郡の人、九世、従七位下川原公福貞云云等五戸の課条を免ず、福貞等白して言う、云云、謹んで天長九年十二月十五日の詔書を検ずるに夫れ王氏は、王号は五世に止まり、資蔭は六世を過ぎず、云云、宜しく七世以下、数を計りて五世に至らば、課役蠲除すべし、その既に姓を賜う者は、先後を論ぜず、一に王の蔭に依り、世を計りてこれを容るること亦この例に同じ者。云云、望み請うらくは、同じく蠲除せられんことを、これを許す。
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