玉勝間 / 八の巻 御袋
人の母を、御袋と云ふこと、同記に、享德四年正月九日、今曉室町殿姫君誕生也。御袋大舘兵庫頭妹也。
新字:人の母を、御袋と云ふこと、同記に、享徳四年正月九日、今暁室町殿姫君誕生也。御袋大舘兵庫頭妹也。
書き下し
人の母を、御袋と云うこと、同じ記に、享徳四年正月九日、今暁室町殿の姫君誕生なり。御袋は大館兵庫頭の妹なり。
現代語訳
人の母を「御袋(おふくろ)」ということが、同じ日記(康富記)に「享徳四年正月九日、今朝の明け方、室町殿(将軍)の姫君が誕生した。御袋(母君)は大館兵庫頭の妹である」とある。
解説
母を言う「おふくろ」という呼び方が、室町時代の日記にすでに見えることを示した段である。享徳四年、室町殿、つまり将軍足利義政に姫君が生まれ、その母は大館兵庫頭の妹であったと、中原康富は記している。ここでの「御袋」は、生まれた子の母を敬って言う語として使われている。「おふくろ」の語源には、子を胎内に包む袋にたとえたとする説などがあり、定まっていない。江戸時代には「おふくろ」はすでに母を親しみを込めて呼ぶ日常語であった。宣長は語源には触れず、その語が室町時代の将軍家をめぐる記録に、敬意を込めた呼び方として見えることだけを示す。今は男性が自分の母を指して言うくだけた言葉だが、もとは貴人の母を言う丁寧な言葉であった。言葉の丁寧さの度合いが時代とともに移ることを教える一例である。
関連する章句
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