玉勝間 / 一の巻 宗尊親王の北の方を御息所と申せし事
同じ書に、かまくらの宗尊ノ親王の北の方を、みな御息所と記せり、そのかみさぞ申しけむ。そもそも御息所とは、皇子皇女をうみ奉り給へる女御更衣などをこそ申しつれ、親王の北ノ方をしも申せりしは、いたく轉り來ぬる稱なりかし。又東宮の妃を御息所と申すことと心得たるも、後世の事なり。
新字:同じ書に、かまくらの宗尊ノ親王の北の方を、みな御息所と記せり、そのかみさぞ申しけむ。そもそも御息所とは、皇子皇女をうみ奉り給へる女御更衣などをこそ申しつれ、親王の北ノ方をしも申せりしは、いたく転り来ぬる称なりかし。又東宮の妃を御息所と申すことと心得たるも、後世の事なり。
書き下し
同じ書に、かまくらの宗尊の親王の北の方を、みな御息所と記せり、そのかみさぞ申しけむ。そもそも御息所とは、皇子皇女をうみ奉り給える女御・更衣などをこそ申しつれ、親王の北の方をしも申せりしは、いたく転り来ぬる称なりかし。また東宮の妃を御息所と申すことと心得たるも、後の世の事なり。
現代語訳
同じ書に、鎌倉の宗尊親王の北の方(正室)を、みな「御息所」と記している。その当時はそのように申したのであろう。そもそも御息所とは、皇子・皇女をお産み申し上げた女御・更衣などをこそ申したものであって、親王の北の方をまで申したのは、ひどく意味の移ってきた呼び名である。また東宮の妃を御息所と申すものと理解しているのも、後の世のことである。
解説
「御息所」という呼び名の意味の移り変わりを指摘した段である。吾妻鏡は、鎌倉幕府の六代将軍として京から迎えられた宗尊親王の正室を、一貫して御息所と記している。宣長によれば、御息所とは本来、天皇の皇子や皇女を産んだ女御・更衣を指す尊称で、源氏物語の六条御息所のように使われた。それが親王の正室にまで及んだのは、呼び名がひどく転じた結果であり、東宮の妃を御息所と呼ぶのもまた後世の用法だという。一つの呼称が時代とともに指す範囲を広げていく過程を、用例から追っている。尊称は使われるうちに対象が広がり、もとの重みを失っていくことが多い。言葉の意味は固定したものではなく、移り変わるものだと気づかせてくれる。
関連する章句
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御然るを師も、この俗称にまどわれたりと見えて、東宮の御息所とは、皇太子の嫡妃を申すなり。然るを皇太子の母儀を申すと、人々思えるは、その証有りや、と云われたる、これかえりてひが事なり。東宮の御母を申すことは、右の古今集、即ちその証ならずや。又東宮の女御と申せるも、その御母女御と云うことなるを以て、御息所も、然ることを知るべし。又源氏物がたりに、一のみこの女御、東宮の女御など有るも、みなその御母なる、これらもその証なるを、かえりてこれらを、転々して俗語のままに書けるなりと云い、かの古今集をさえ疑いて、さは申すまじき事なりとて、いたく強いたる考えを、あげられたるは、いかにぞや。これかえりて、みずからかの後の世の俗称にまどわれたるものなり。古えに東宮の妃を、御息所と申せる証ありや。有る事無し。その体と思われたるは、六条の御息所なるを、これ又かのまどいの心得たがいなり。その故は、かの六条の御息所と申すは、前坊の妃なるよしにて申すにはあらず。前坊の姫御子を生み給いて、その御母なる故に、御息所とはせるなり。天皇の女御更衣などの、御子生み給えるを、然か申すと同じ事なるをや。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御もしこれをあるまじき事と云わば、御息所と云うも、ただ云いならわしの俗称にこそあれ、古えよりの正しき号にはあらざれば、御息所としるせるをも、ともにあるまじき事とすべし。まして東宮の妃を、然か申せる事は、古えのいずれの国史式令に見えたるぞや。すべて師のこの事の疑いの本を尋ぬれば、御息所とは、東宮の妃を申す、後の世の俗称にまどわれたるよりおこりて、その趣をたてとおさむとせらるるから、強い事もひがごとも出で来つるものぞかし。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御又かの伊勢物語の東宮の女御を、真名本には、これも東宮の御息所と有るによりて、東宮の女御と云うことは、この書の頃には、云うべき事ともおぼえぬ俗語なり、と云い消たれたるもひが事なり。そもそも歌集の詞書、また物語ぶみなどは、古えとても、国史などのたぐいとは異にして、かようの称呼なども、これただ当時世間に云いならえるままにしるせる事多ければ、さのみことわりをもて、正すべきわざにあらず。そもそも後宮の御さだめ、古えは皇后の次に妃、次に夫人、次に嬪にて、女御と云うは、日本紀の雄略の御巻にこそ見えたれ、その後は聞えざりしを、仁明文徳の御世の頃よりしては、妃、夫人など申すは、おさおさ聞えずして、ただ皇后の次は女御、その次は更衣にて、女御は親王大臣の御女の成り給いて、いにしえの妃夫人にあたり、更衣は大かた嬪にあたれり。世の移れるままに、古えとはかわれる事、かくのごとくなれば、なずらえて、延喜の頃、はやく東宮の御母を、その御息所とも、その女御とも申しけむ事、何かは疑うべき。
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『玉勝間』五の巻 東宮の御息所 東宮の女御古今集に、二条の后の、東宮のみやすん所と聞えける時云云、いせ物語に、昔、東宮の女御の御方の云云と有る。まず二条の后は、清和天皇の中宮なり。貞観八年に、女御となり給い、同十年に、貞明親王を生み奉り給い、同十一年に、その親王皇太子に立たせ給う。これ陽成天皇におわします。これよりして、元慶元年に、中宮となり給うまでのあいだ、女御にて、皇太子の御母にましますを以て、東宮の女御とも、東宮の御息所とも申せること、契沖が余材抄、勢語臆断などに云えるがごとし。東宮の御母女御、御母御息所と云うことなり。御息所と申す称は、女御にまれ更衣にまれ、皇子皇女を生み奉り給える人を申す称なり。その趣源氏物語などを見て知るべし。かの物語に、桐壺の更衣などをも光源氏の君を生み奉られたる後は、御息所と云えること有り。その外も皆然かなり。然るを後の世に至りて、これを誤りて、御息所と申すを、東宮の妃の御事と心得たるから、この古今集いせ物語なるをも、清和天皇の東宮にて、ましましける時の御息所なり、と云う注あるは、いみじきひが事なり。東宮の妃を御息所と申すは、いたく後の世の俗称にこそあれ、古えにはかつて無き事なり。
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『玉勝間』四の巻 宮と申す称天皇の御胤を宮と申す事、古えは皇子皇女にかぎれり。皇子の御子よりしては、宮と申す事無かりき。然るを中ごろよりして、皇子の御子をも申し、近くは親王の御すじをば、世々すべて宮と申す事となれり。
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『玉勝間』一の巻 実名を呼ぶをなめしとする事同じ書に、平の政子が頼家を諫めたる語に、源氏等は幕下の一族、北条は我が親戚なり、仍て先人しきりに芳情を施され、常に座右に招かしめ給う、而るに今彼の輩等に於いて、優賞無く、剰え皆実名を喚ばしめ給うの間、各々恨みを貽すの由、其の聞こえ有りとあり。人の実名をよぶことをば、無礼しとする事、これにても知るべし。
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