玉勝間 / 十二の巻 歌に六義と云ふ事
歌に六義と云ふ事を、やむことなき事にするは、いと愚なることなり。六義は、もろこしの國にて、上代の詩にさだせる事にこそあれ、歌には更にさる事無し。歌に云ふは、古今集の序に、歌のさま六つなりとて、その六くさを分て、あてたるより起れる事なるを、そは彼のもろこしの詩にならひて、六くさには分たれども、さらにかなはぬ事どもにて、そへ歌と云ひ、なすらへ歌と云ひ、たとへ歌と云へるなど、此三つは、皆同じ事なるを、かの詩の六義の名どもにあてむとて、しひて分たる物なり。又いはひ歌を、此うちに入ルたるもあたらず、もしいはひ歌を入れば、戀歌かなしびの歌などをも、入れずはあるべからず。そもそも此古今集の序は、すべて歌のことをば、よくも尋ねずして、唯だもろこしにて、上代の詩の事を云へるを、其儘にとりて書ること多くして、歌には更にかなはぬ事がちなる中に、此六義は、殊にあたらぬ事にし有れば、深く心をいれて、とかく論ふは、やく無きいたづらごとなり。もろこしにて、詩のうへの六義だに、さまざま說有て、定め難き事なるに、いはむや歌にうつしあてては、いかでかよく適ふやうのあらむ。
新字:歌に六義と云ふ事を、やむことなき事にするは、いと愚なることなり。六義は、もろこしの国にて、上代の詩にさだせる事にこそあれ、歌には更にさる事無し。歌に云ふは、古今集の序に、歌のさま六つなりとて、その六くさを分て、あてたるより起れる事なるを、そは彼のもろこしの詩にならひて、六くさには分たれども、さらにかなはぬ事どもにて、そへ歌と云ひ、なすらへ歌と云ひ、たとへ歌と云へるなど、此三つは、皆同じ事なるを、かの詩の六義の名どもにあてむとて、しひて分たる物なり。又いはひ歌を、此うちに入ルたるもあたらず、もしいはひ歌を入れば、恋歌かなしびの歌などをも、入れずはあるべからず。そもそも此古今集の序は、すべて歌のことをば、よくも尋ねずして、唯だもろこしにて、上代の詩の事を云へるを、其儘にとりて書ること多くして、歌には更にかなはぬ事がちなる中に、此六義は、殊にあたらぬ事にし有れば、深く心をいれて、とかく論ふは、やく無きいたづらごとなり。もろこしにて、詩のうへの六義だに、さまざま説有て、定め難き事なるに、いはむや歌にうつしあてては、いかでかよく適ふやうのあらむ。
書き下し
歌に六義と云う事を、やんごとなき事にするは、いと愚かなることなり。六義は、もろこしの国にて、上代の詩にさだせる事にこそあれ、歌には更にさる事無し。歌に云うは、古今集の序に、歌のさま六つなりとて、その六くさを分けて、あてたるより起これる事なるを、そはかのもろこしの詩にならいて、六くさには分かたれども、さらにかなわぬ事どもにて、そえ歌と云い、なずらえ歌と云い、たとえ歌と云えるなど、この三つは、皆同じ事なるを、かの詩の六義の名どもにあてむとて、しいて分かちたる物なり。またいわい歌を、このうちに入れたるもあたらず、もしいわい歌を入れば、恋歌かなしびの歌などをも、入れずはあるべからず。そもそもこの古今集の序は、すべて歌のことをば、よくも尋ねずして、ただもろこしにて、上代の詩の事を云えるを、そのままにとりて書けること多くして、歌には更にかなわぬ事がちなる中に、この六義は、殊にあたらぬ事にし有れば、深く心をいれて、とかく論うは、やく無きいたずらごとなり。もろこしにて、詩のうえの六義だに、さまざま説有りて、定め難き事なるに、いわんや歌にうつしあてては、いかでかよく適うようのあらむ。
現代語訳
歌について「六義」ということを重大なことのように扱うのは、まことに愚かなことである。六義は、中国で上代の詩について定めたことであって、歌にはまったくそのようなことは無い。歌で六義を言うのは、古今集の序に「歌のさまは六つある」として、その六種を分けて当てはめたことから起こったのだが、それはあの中国の詩にならって六種に分けてはいるものの、まったく合わないことばかりで、「そへ歌」「なずらへ歌」「たとへ歌」などという三つはみな同じことなのに、あの詩の六義の名に当てはめようとして、無理に分けたものである。また「いはひ歌(祝い歌)」をこの中に入れたのも当たっていない。もし祝い歌を入れるなら、恋歌や悲しみの歌なども入れないわけにはいかない。そもそもこの古今集の序は、すべて歌のことをよく考えずに、ただ中国で上代の詩について言ったことを、そのまま取って書いたところが多く、歌にはまったく合わないことばかりである中でも、この六義はとりわけ当たらないことなのだから、深く心を入れてあれこれ論じるのは、無益な徒事である。中国でさえ、詩の六義についてさまざまな説があって定めがたいのに、まして歌に移し当てたのでは、どうしてうまく合うことがあろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』八の巻 長歌の詞のつづき五七なると七五なるとの事そもそも万葉の頃までは、五七と続くかた、調べよろしかりけむを、古今集の頃よりして、七五と成りて、今もそれ宜しく覚ゆるは、古えと後の世との、おのずからの調べの変りなるべし、今の世に、万葉風を詠む人多くて、何事も、後の世をばわろしと云う者の、そのよめる長歌を見れば、そのことば、多くは七五七五と続けるは、此けじめを得知らずして、猶後の世のおのずからの調べを、得まぬかれざるなり。古今集の長歌、初めなる二首は、五七とも七五とも、交りて続けるを、後の三首は、おおかたは七五と定まれり。
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『玉勝間』十四の巻 又たとへ歌のやうたとえ歌、古今集よりこなたのはその歌を見れば、譬えたる意あらわに知らるるように詠みたる物なり。然るに、万葉集なるは、その事にあたりて、その詠みたる人は、譬えたる心を知るべけれど、後にその歌を見たるのみにては、たとえたる意はこまかには知れ難きが多し。されば今その歌をとくに、大かたにはおしはからるれども、確かには云いがたき歌おおし。その心してとくべきなり。又万葉のたとえ歌は、その譬えたる草木鳥虫のうえの詞と、ただに恋のうえを云える詞とを、あいまじえて詠める多し。これ又心得おくべし。
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