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玉勝間 / 十二の巻 俗言にはのと云ふべきをはぶくことある事

今の俗言には、のと云ふべきを、省きて云はざるたぐひ多し。國國の郡ノ名村ノ名など、古、は必ず、なにの郡又なにの村とこそ云へるに、今はなべて、なにごほりなにむらとのみ云ひてのと云ふ事無し。又ふぢはらの某、みなもとの某などは、今ものと云へども、いはゆる稱號苗字には、のを附る事無し。うちとけごとには、稀れに附けて云ふ事あれど、そをばかへりて正しからぬ事にすめり。されど雅ては、稱號苗字にも必ずのと云ふべきわざぞ。大かた言の葉の學びせむ人は、斯かるいささかのふしにも、心をつけて、雅と俗とのけぢめを、わきまへ知るべきわざになむ。

新字:今の俗言には、のと云ふべきを、省きて云はざるたぐひ多し。国国の郡ノ名村ノ名など、古、は必ず、なにの郡又なにの村とこそ云へるに、今はなべて、なにごほりなにむらとのみ云ひてのと云ふ事無し。又ふぢはらの某、みなもとの某などは、今ものと云へども、いはゆる称号苗字には、のを附る事無し。うちとけごとには、稀れに附けて云ふ事あれど、そをばかへりて正しからぬ事にすめり。されど雅ては、称号苗字にも必ずのと云ふべきわざぞ。大かた言の葉の学びせむ人は、斯かるいささかのふしにも、心をつけて、雅と俗とのけぢめを、わきまへ知るべきわざになむ。

書き下し

今の俗言には、のと云うべきを、省きて云わざるたぐい多し。国々の郡の名村の名など、古は必ず、なにの郡またなにの村とこそ云えるに、今はなべて、なにごおりなにむらとのみ云いてのと云う事無し。またふじわらの某、みなもとの某などは、今ものと云えども、いわゆる称号苗字には、のを付くる事無し。うちとけごとには、稀れに付けて云う事あれど、そをばかえりて正しからぬ事にすめり。されど雅びては、称号苗字にも必ずのと云うべきわざぞ。大かた言の葉の学びせむ人は、かかるいささかのふしにも、心をつけて、雅と俗とのけじめを、わきまえ知るべきわざになむ。

現代語訳

今の俗語では、「の」と言うべきところを省いて言わない類いが多い。国々の郡の名や村の名などは、昔は必ず「何の郡」「何の村」と言ったのに、今は一般に「何ごほり」「何むら」とだけ言って「の」を言うことがない。また「ふぢはらの某」「みなもとの某」などは今も「の」を言うが、いわゆる称号や苗字には「の」を付けることがない。くだけた言い方ではまれに付けて言うこともあるが、それをかえって正しくないことにしているようだ。けれども雅な言葉では、称号や苗字にも必ず「の」と言うべきなのである。およそ言葉の学びをしようとする人は、こうしたわずかな点にも心を配って、雅と俗との区別をわきまえ知るべきである。

解説

前段とは逆に、話し言葉で「の」が落ちる現象を取り上げた段である。昔は「何の郡」「何の村」と言ったのが今は「何郡」「何村」と言い、藤原・源などの本姓には今も「の」を付けるのに、苗字には付けない。くだけた場で付けると、かえって誤りとされるほどだという。宣長は、雅な言葉では苗字にも「の」を付けるべきだと言い、言葉を学ぶ者はこうした小さな点にも雅と俗の区別を知っておけと説く。俗語を否定しているのではない。俗は俗、雅は雅として区別して使い分けることこそが、言葉を知るということなのである。宣長は日常の口語にも、歌文の雅語にも通じていたからこそ、その境目に敏感であった。場に応じた言葉の選び分けは、今でも言葉を扱う者の基本だろう。

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