玉勝間 / 十二の巻 としの始に病を歓楽と云ふ事
園大曆に、貞和二年正月八日の所に。予風氣相侵仍歡樂之間、不及出座、と見えたり。病を歡樂と云へること、これよりさきの物にも見えしやうに覺ゆ。
新字:園大暦に、貞和二年正月八日の所に。予風気相侵仍歓楽之間、不及出座、と見えたり。病を歓楽と云へること、これよりさきの物にも見えしやうに覚ゆ。
書き下し
園太暦に、貞和二年正月八日の所に。予風気相侵し仍りて歓楽の間、出座に及ばず、と見えたり。病を歓楽と云えること、これよりさきの物にも見えしように覚ゆ。
現代語訳
『園太暦』の貞和二年(1346)正月八日の条に、「私は風邪に侵されて歓楽(病気)中なので、出座できなかった」と見えている。病気を「歓楽」と言ったことは、これより前の書物にも見えたように記憶する。
解説
年の始めに病気のことを「歓楽」と言い換えた習わしを、南北朝期の公卿洞院公賢の日記『園太暦』から示した段である。正月早々に「病」という不吉な言葉を口にするのを避け、わざと反対の意味の「歓楽」で言い表したもので、いわゆる忌み言葉の一種である。結婚式で「終わる」を「お開き」と言うのと同じ発想であろう。宣長は、これより前の書物にも見えた覚えがあると書き添えつつ、確かな出典は挙げていない。記憶の曖昧なところを曖昧なまま正直に記すのも、宣長の書き方の特徴である。言葉の言い換えには、その時代の人々が何を恐れ、何を願ったかがそのまま表れる。忌み言葉は迷信として片づけられがちだが、言葉に力があると信じた古人の心の跡として読むこともできる。
関連する章句
-
『玉勝間』一の巻 年ノ始に病を歓楽といふ事同書に云う、承元二年正月十一日云々、将軍家御歓楽に依りて、延びて今日に及ぶ、今の世にも、年のはじめには、病と云う事をいみて、御歓楽と云うならわしのこれり。
-
『玉勝間』二の巻 忌日祥月年忌の事園大暦に云う、貞和三年九月廿五日、今日は竹林院入道左大臣の卅三回の忌辰なり、茲に因りて広義門院、西園寺無量光院の壇場に就きて、御仏事を修せらる、件の朞月の仏事、先規未だ詳らかならず云云、手〓〓を取るに、更に所見無し云云、然れども或いはまた此の事を営む人有るか、予が先妣の此の忌辰、相営む事有り、所詮幽霊の追福、遠近懇志を尽くすの条、孝子の道に叶うべきか、とあり、この論おだやかなり。
-
『玉勝間』七の巻 たたう紙園太暦に、徳大寺の前の内大臣より、公賢の大臣に、くさぐさの事ども問いたまえる、条々の中に、一帖紙は沙汰に及ばざるの由、仰せを蒙り候いし、只朝夕用い候、白く候やらん、もし薄などちと散ばみたる物にや候べき、現在鼻垂れ候わば、取り出だすべきの間、之有るべき様、大切に候か、公卿已後も、薄様の帖紙持ちたる事も、よそには見及び候いし、これはもし夏の事に候やらん、紅の帖紙、古物をば持ちて候と有り。帖紙は、今の世ふところにもつ、はな紙の事なり。
-
『玉勝間』十三の巻 年号月日をあやに書るふるき例源の為憲の、天禄の歌合の跋のとじめに、天禄という年はじまりて三とせの、秋のなかばなる月の、しもの十日に、いまふつかおきての事なりと書けり。年はじまりてと云える事いかがなり。又いま二日おきてもいかが。
-
『玉勝間』七の巻 年の始のせちと云ふ事年のはじめに、いわゆる振る舞いなどする事を、節と云う。壬生の忠見家集に、或るところの屏風、正月せちするところ有り、春霞たつと云う日をむかえつつ年のあるじと我やなりなむ。
-
『玉勝間』十三の巻 子日の宴同書に、天安元年春正月乙丑云云、禁中に曲宴有り、これに預かる者、公卿近侍数十人に過ぎず、昔は上月の中、必ずこの事有り、時にこれを子日の態と謂うなり、今日の宴、旧迹を修するなりとある、これは必ず子にあたる日に有るべき事なるに、乙丑の日のところに記されたるは、いぶかし。今思うに、この上に、庚申の日、右大臣良房公上表の文を記し、次に乙丑重ねて上表して曰くとて、その文を記したる次にあれば、件の二度の上表の文を引きつづけて記したるにつきて、その中間の甲子の日にしるすべきが、紛れたるにはあらざるか。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る