玉勝間 / 十二の巻 扇をとりて神ををがむ事
今ノ世に神を拜むに、扇を笏のやうにとり持てをがむは、古、の儀にあらざるべし。貞觀十年六月廿八日ノ格に、云云住吉平岡鹿島香取等、神主井祝禰宜、皆是把笏、自餘神社、未預此例、祭禮之日、拱手從事云云。これによりて思へば昔は、笏を把ッぬ者は、手を拱て拜みしなるべし。
新字:今ノ世に神を拝むに、扇を笏のやうにとり持てをがむは、古、の儀にあらざるべし。貞観十年六月廿八日ノ格に、云云住吉平岡鹿島香取等、神主井祝祢宜、皆是把笏、自余神社、未預此例、祭礼之日、拱手従事云云。これによりて思へば昔は、笏を把ッぬ者は、手を拱て拝みしなるべし。
書き下し
今の世に神を拝むに、扇を笏のようにとり持ちておがむは、古の儀にあらざるべし。貞観十年六月廿八日の格に、云云住吉・平岡・鹿島・香取等の神主并びに祝・禰宜、皆これ笏を把る、自余の神社は、未だこの例に預からず、祭礼の日は、手を拱きて事に従う云云。これによりて思えば昔は、笏を把らぬ者は、手を拱きて拝みしなるべし。
現代語訳
今の世に、神を拝むときに扇を笏(しゃく)のように取り持って拝むのは、古い作法ではないだろう。貞観十年(868)六月二十八日の格に「……住吉・平岡・鹿島・香取などの神主と祝・禰宜はみな笏を持つ。そのほかの神社はまだこの例にあずからず、祭礼の日には手を拱いて(組み合わせて)事を行う……」とある。これによって考えると、昔は笏を持たない者は手を組み合わせて拝んだのであろう。
解説
神を拝むときに扇を笏の代わりに持つ当時の作法が、古来のものではないと論じた段である。根拠は平安前期の法令、貞観十年の格で、笏を持つことが許されたのは住吉・平岡・鹿島・香取など一部の有力な神社の神職だけで、他の社の神職は祭礼の日に手を拱いて、つまり両手を胸の前で組んで事に当たったと定めている。笏は官人の身分を示す持ち物であり、誰もが持てるものではなかった。宣長はここから、笏を持たない者の古い拝み方は手を拱くことであって、扇を笏に見立てるのは後世の真似事だろうと推す。信仰の作法も、制度の記録によって古い形を確かめる。神道の儀礼を古えの姿に正そうとする国学の関心がよく表れている。当たり前の所作にも、いつ誰が始めたのかという歴史がある。
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