玉勝間 / 一の巻 神拝口伝といふ事
同記云、文明十二年十二月二日、參詣吉田社兼倶卿宿所咫尺之間、立寄賀日本紀御談義參事、對面相語云、神拜口傳事、諸家競有御尋、然此六七十年以來、一向無被問事、諸家無敬神歟云云、余敬神異于他以來次可授云云、則口傳之三日、遣狀於吉田神主、昨日面談、爲千載一遇候、殊神拜御口傳事、深秘心中候、恩許不知手足之舞踏候、欣悅之餘、重可參申之處、遲遲先獻短章候、何樣連連神道事、可仰御指南候、恐恐謹言、宣胤、十二月三日、吉田殿。
新字:同記云、文明十二年十二月二日、参詣吉田社兼倶卿宿所咫尺之間、立寄賀日本紀御談義参事、対面相語云、神拝口伝事、諸家競有御尋、然此六七十年以来、一向無被問事、諸家無敬神歟云云、余敬神異于他以来次可授云云、則口伝之三日、遣状於吉田神主、昨日面談、為千載一遇候、殊神拝御口伝事、深秘心中候、恩許不知手足之舞踏候、欣悦之余、重可参申之処、遅遅先献短章候、何様連連神道事、可仰御指南候、恐恐謹言、宣胤、十二月三日、吉田殿。
書き下し
同記に云う、文明十二年十二月二日、吉田社に参詣す、兼倶卿の宿所咫尺の間、立ち寄りて日本紀御談義に参る事を賀す、対面して相語りて云う、神拝口伝の事、諸家競いて御尋ね有り、然るに此の六七十年以来、一向に問わるる事無し、諸家敬神無きか云々、余は敬神他に異なる以来、次いで授くべしと云々、則ち之を口伝す。三日、状を吉田神主に遣わす、昨日の面談、千載一遇たり候、殊に神拝御口伝の事、深く心中に秘し候、恩許手足の舞踏を知らず候、欣悦の余り、重ねて参り申すべきの処、遅々、先ず短章を献じ候、何様連々神道の事、御指南を仰ぐべく候、恐々謹言、宣胤、十二月三日、吉田殿。
現代語訳
同じ日記にこうある。「文明十二年十二月二日。吉田社に参詣した。兼倶卿の宿所がすぐ近くなので立ち寄り、日本紀の御談義に参ったことを祝った。対面して語り合ったところ、兼倶卿は言った。『神拝の口伝のことは、かつては諸家が競ってお尋ねになった。ところがこの六、七十年来、まったく問われることがない。諸家には敬神の心がないのであろうか。あなたは敬神の心が人に異なるので、ついでに授けよう』と。そこでこれを口伝された。三日、吉田の神主に書状を送った。『昨日の面談は千載一遇のことであった。ことに神拝の御口伝のことは、深く心中に秘している。お許しいただいたご恩に、手の舞い足の踏むところも知らぬほどである。うれしさのあまり、重ねて参上して申し上げるべきところだが、遅くなるので、まずは短い書状を差し上げる。どうか引き続き神道のことについてご指南を仰ぎたい。恐々謹言。宣胤。十二月三日。吉田殿へ。』」
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 吉田兼倶卿日本紀御談義の事同じ記に曰く、文明十二年十月廿一日、今日禁裏に於いて日本紀の御談義、兼倶卿之を申す、云々。頃之兼倶卿参る、先ず御談義有り(日本紀巻本)、次に黒戸に於いて御談義有り、西面の上壇、主上御座(南面)、次の壇の中程、兼倶卿候す(北面)、日本紀(草紙本)小机の上に置きて之を読み申す、先ず兼倶卿参るの後、聴衆参進す、(この間公卿たちの名略けり)等、同じ間に左右に相分かれて参候す、殿上人(名ども略く)等は下壇に在るなり、御前より見えざる所なり、直垂衆は西の小庭に於いて聴聞す、云々。兼倶卿の候する所の事、兼ねて簀子たるべきの由定めらるるの処、列を以て所存を申すの間、期に臨みて改めらるる者なり、今日は端の四五行を申し分くべし、文字読みを致すの処、不慮に刻を経るの間、日本書紀巻第一神代上、此の十字許り之を申す。また、同十一月廿六日、今日日本紀御談義なり、気段なり、先ず中臣祓の御伝受、他人之を聞かず。また十二月十四日、今日日本紀講尺結願なり、云々。神秘御伝授に就きて、今日賞を仰せらる(従二位)。また曰く、文亀二年正月十七日、桃華坊に参る、日本紀(神代下巻)談義なり、侍従二位兼倶卿之を申す、同廿日、一条殿に参る、日本紀談義、今日功を終う(下巻以上三ヶ度)、神道の事等多く以て之を申す。など見えたり。そのかみ兼倶の卿の日本紀を講じ申されけんほど、思いやられたり。
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『玉勝間』一の巻 三社の託宣といふ物同記に曰く、文亀二年二月十日、侍従二位(兼倶卿)所望の三社託宣、并びに天神の名号、云々。以上今日之を書きて之を遣わす、また、同十七日、三社託宣一幅、兼永朝臣の所望にて之を書く。
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『玉勝間』八の巻 国ノ守神拝更科の日記に曰わく、あずまより人きたり、神拝と云う事して、国のうちありきしに云云、これ菅原の孝標の、東国の国司になりて、下りしが許より、云いおこせたることなり、昔は、国司任国にくだりては、まず部内の神社神社に詣でし事なり。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさま神の御典を説く事、むかしは紀伝道の儒者の職にて、その説ける書、弘仁より代代の、日本紀私記これなり。そはいずれも、ただ漢学の余力をもて考えたるのみにして、神の御典をもはら学びたるものに有らざるが故に、古の意詞にくらく、すべてういういしく浅はかにて、もとより道の旨趣も、いかなるさまとも、説きたる事無く、唯だ文によりて、有るべきままに云えるばかりなり。然れども皇朝の昔の儒者は、すべてから国のように、己が殊にたてたる心は無かりし故に、神の御ふみを説くとても、漢意に説きまげたる、私説もおさおさ見えず、儒意によれる強説も無くて、やすらかには有りしを、後の世に至りては、殊に神学と云う一ながれ出来て、もはらにするともがらし有れば、つぎつぎに委しくはなりもて行けど、なべての世の物知り人の心、なまさかしくなりて、神の御ふみを説く者も、さかしらを先にたてて、文のままには物せず、おのが好むすじに引きつけて、或るは仏意、或るは儒意に、説き曲ぐる事となれり。
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『玉勝間』十二の巻 扇をとりて神ををがむ事今の世に神を拝むに、扇を笏のようにとり持ちておがむは、古の儀にあらざるべし。貞観十年六月廿八日の格に、云云住吉・平岡・鹿島・香取等の神主并びに祝・禰宜、皆これ笏を把る、自余の神社は、未だこの例に預からず、祭礼の日は、手を拱きて事に従う云云。これによりて思えば昔は、笏を把らぬ者は、手を拱きて拝みしなるべし。
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『玉勝間』十一の巻 田舎の神社に高き位階を授らるる事同記に云わく、同五年九月廿九日、この日贈位宣下行わるるなり。(西宮左大臣高明公)備前国において勧請し奉る神と云云。件の社この間託宣有り、某村人に属きて、祟りを成さしめ給い候間、山科中将顕言朝臣に就きて、地下より申し請うる仁有り。奏聞を経て、勅許有りてこれを行わる、従一位を贈らるる者なり。夜に入りてその儀有り云云。これは贈位の例とはおぼえず。ただ神に位を授け給えるにこそ有れ。またすべての事のさま、古に違いて、近き世のさまなり。
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