玉勝間 / 七の巻 手拍数の事
正應六年七月十六日、公卿勅使記に、勅使、宸筆宣命笏を取副天、御拜四箇度、拍手兩段、又御拜四箇度、拍手兩端、但後兩端手、被略之、嘉曆三年九月十日、公卿勅使記にも、勅使、宸筆宣命を笏に取副て、御拜四箇度、拍手兩端、又御拜四箇度、拍手兩段と見ゆ。元文三年大嘗會便蒙に、大忌公卿、庭中版位に着、拍手、常のかしは手は、二ッづつうつばかりなり。此時の拍手は、四度つつ八度、一人の拍手の數、三十二なり。やひらでと云、と云へり。當宮にて、今の世の拜は、大神宮年中行事によりて行ふなり。其拜のさま、拜八度、手兩端と有り、(此兩端は、四ッを一段とし、それを二度にて、合せて八ッなり、その八ッを、四度拜の後每に拍て、合せて十六なり、今も、四度拜し、手八ッ打て、膝退して、又四度拜、手八ッ打、後手拍なり)四ヲを一段とすると、八ッを一段とするとの異あり、と荒木田ノ經雅ノ神主の、儀式帳ノ解に云へり。末の細書に、數のたがひあるは、問てよくただして、又しるすべし。
新字:正応六年七月十六日、公卿勅使記に、勅使、宸筆宣命笏を取副天、御拝四箇度、拍手両段、又御拝四箇度、拍手両端、但後両端手、被略之、嘉暦三年九月十日、公卿勅使記にも、勅使、宸筆宣命を笏に取副て、御拝四箇度、拍手両端、又御拝四箇度、拍手両段と見ゆ。元文三年大嘗会便蒙に、大忌公卿、庭中版位に着、拍手、常のかしは手は、二ッづつうつばかりなり。此時の拍手は、四度つつ八度、一人の拍手の数、三十二なり。やひらでと云、と云へり。当宮にて、今の世の拝は、大神宮年中行事によりて行ふなり。其拝のさま、拝八度、手両端と有り、(此両端は、四ッを一段とし、それを二度にて、合せて八ッなり、その八ッを、四度拝の後毎に拍て、合せて十六なり、今も、四度拝し、手八ッ打て、膝退して、又四度拝、手八ッ打、後手拍なり)四ヲを一段とすると、八ッを一段とするとの異あり、と荒木田ノ経雅ノ神主の、儀式帳ノ解に云へり。末の細書に、数のたがひあるは、問てよくただして、又しるすべし。
書き下し
正応六年七月十六日、公卿勅使記に、勅使、宸筆の宣命笏に取り添えて、御拝四箇度、拍手両段、また御拝四箇度、拍手両端、ただし後の両端の手、之を略さる、嘉暦三年九月十日、公卿勅使記にも、勅使、宸筆の宣命を笏に取り添えて、御拝四箇度、拍手両端、また御拝四箇度、拍手両段と見ゆ。元文三年大嘗会便蒙に、大忌の公卿、庭中の版位に着き、拍手、常のかしわ手は、二つずつうつばかりなり。この時の拍手は、四度ずつ八度、一人の拍手の数、三十二なり。やひらでと云う、と云えり。当宮にて、今の世の拝は、大神宮年中行事によりて行うなり。その拝のさま、拝八度、手両端と有り、(この両端は、四つを一段とし、それを二度にて、合わせて八つなり、その八つを、四度拝の後ごとに拍ちて、合わせて十六なり、今も、四度拝し、手八つ打ちて、膝退して、また四度拝、手八つ打ち、後手拍つなり)四つを一段とすると、八つを一段とするとの異あり、と荒木田の経雅の神主の、儀式帳の解に云えり。末の細書に、数のたがいあるは、問いてよくただして、またしるすべし。
現代語訳
正応六年七月十六日の公卿勅使記に、「勅使は、天皇ご自筆の宣命を笏に添えて持ち、御拝を四度、拍手を両段、また御拝を四度、拍手を両端。ただし後の両端の拍手は省略された」とある。嘉暦三年九月十日の公卿勅使記にも、「勅使は、ご自筆の宣命を笏に添えて持ち、御拝を四度、拍手を両端、また御拝を四度、拍手を両段」と見える。元文三年の大嘗会便蒙に、「大忌の公卿は庭の中の版位(立つ位置の標)に着き、拍手をする。普通の柏手は二つずつ打つだけである。この時の拍手は、四度ずつを八度、一人の拍手の数は三十二である。これを八開手という」と言っている。当宮(伊勢神宮)で今の世に行う拝は、大神宮年中行事によって行うのである。その拝の仕方は「拝八度、手両端」とある(この両端は、四つを一段とし、それを二度で合わせて八つである。その八つを、四度拝むごとの後に拍って、合わせて十六である。今も四度拝み、手を八つ打って、膝をついて退き、また四度拝み、手を八つ打ち、最後に手を拍つのである)。四つを一段とするのと、八つを一段とするのとの違いがある、と荒木田経雅神主が儀式帳の注釈書で言っている。末尾の細字の注に数の食い違いがあるものは、人に問うてよく確かめて、また記すことにしよう。
解説
関連する章句
-
『玉勝間』七の巻 手拍数の事大神宮儀式帳に、八度拝み奉る、同書に、四段拝み奉り、短手二段拍ち、一段拝し、また更に四段拝み奉り、短手二段拍ち、一段拝み奉りて畢る、(この内に、二つの一段拝は、ただ敬のあまりに、屈伏するにて、拝の数にはあらず、拝の数は四段と四段となり、)同書に、四度拝み奉り、手四段拍ち、また後に四度拝み奉り、手四段拍ちて畢り、退く、(手の数、これは四つ拍つを一段として、四段は、十六うつなり、)同書に、四段拝み奉り、八開手拍ち、短手一段拍ち、拝み奉る、また更に四段拝み奉り、八開手拍ち、短手一段拍ち、即ち一段拝み奉る、(八開手と云うは、八つうつなり、)大神宮式に、再拝両段、短拍手両段、膝退して再拝両段、短拍手両段、一拝して訖りて退出す。また同書に、再拝して八開手を拍ち、次に短手を拍ち、再拝す、かくのごとく両遍、云々、大嘗会式に、拍手四度、度別に八遍、神語にいわゆる八開手これなり、(合わせて三十二うつなり、)中右記に、拝八度、先ず四度、次に拍手、次に四度、また手打つ、これを両段両拝と名づく、(これは他説とことなり、)江次第抄に、両段再拝は、両段の間に、小揖有り、同抄祈年祭の条に、上卿拍手の作法、声有らしめず、手のさきを合わせ、やおらやおら打ち合わすなり、同抄、大原野祭、朝使以下皆六拝、とも有れば、六度拝もあることにや。
-
『玉勝間』十二の巻 扇をとりて神ををがむ事今の世に神を拝むに、扇を笏のようにとり持ちておがむは、古の儀にあらざるべし。貞観十年六月廿八日の格に、云云住吉・平岡・鹿島・香取等の神主并びに祝・禰宜、皆これ笏を把る、自余の神社は、未だこの例に預からず、祭礼の日は、手を拱きて事に従う云云。これによりて思えば昔は、笏を把らぬ者は、手を拱きて拝みしなるべし。
-
『玉勝間』一の巻 中臣寿詞その中に、上に引きたる左京二条座二座神は、大社の列にだに入り給わざるに、この祭に預かり給うことは、新嘗に殊なる故ある神なるべし。明良志は、理を延べて良志と云えるにて、阿加理なり。事仁は、下の奉仕と云うへ続く辞なり。食倍はみな多倍と訓むべし、給えと云う事なり。さて聞食倍の下に、弖と云う辞を添えて心得べし。天皇明庭の明の字は、朝の誤りなり。禱乎所聞食止は、一本には称辞竟奉良久止と有り、これも悪しからず。さて天忍雲根神云々の事、伊勢の外宮の書どもに、天村雲命の事として記せり。同じ神にやあらむ。さてこの寿詞を申す事は、辰の日豊楽院に幸し、悠紀の帳に御す、神祇官の中臣、賢木を笏に執りそえて、南門より入る。版位につき跪きて、天つ神の寿詞を奏すと、大嘗祭式に見えたり。わすれたり、大嘗会乃斎場とある会の字は、宮を誤れるなるべし
-
『玉勝間』八の巻 伊勢勅使のとも人の数同じ書に、仁安三年十二月二十一日、伊勢大神宮炎上によりて、同じ月勅使、左大弁雅頼卿発遣、その人数は、勅使大弁子息一人、従十一人、前駈六人(従各五人)、侍五人(従各十人)、雑色六人(従各二人)、舎人四人、人夫三十人、右大史三善章貞、従二十人、史生盛久、同兼康、従各二十人、馬各五疋、官掌頼兼(同前)、弁侍二人、従各五人、馬各二疋、使部十人、従各一人と見えたり。
-
『玉勝間』五の巻 大神宮に諸人のまうづる事同じ書に、承平四年九月の御祭云云、参宮人千万、貴賤を論ぜず云云、と有るを見れば、その頃もかかりしなり。そもそも大神宮には、私の幣を奉ることは、禁制なりしかども、詣ずる事は、なべて苦しからざりしにや。
-
『玉勝間』三の巻 伊勢例幣使発遣参向路次事西宮記に云う、伊勢使、当日早旦沐浴す、次に禊を修す云云、次に参る、(内に生絹の袋を頸に懸け、袍の下に在り、)近例召しに依りて御前に参り、竜顔に近づき、宸筆の宣命を給う、(近代懸紙一枚を加えて封ぜらる、)使笏を授けて之を給わり、懐中に挿む、勅して曰く能く能く申し進めよ、使称唯す、次に仰せられて曰く、宣命読み了らば、神前に於いて之を焼くべし、(若し仰せられずば、殿上に出でて蔵人をして焼くべきか、将た返上すべきかの由を申さしむ、云云、)次に甲賀駅に到りて宿す、云云、十日云云、鈴鹿駅に到りて宿す、十一日、国司供給す、早旦浴殿、次に禊して路に就く、(鈴鹿川を渡ること二渡、安濃川三瀬、雲出川を渡る、)壱志駅に到りて宿す、十二日云云、伊勢の祗承、下見橋に於いて退去す、櫛田川を渡る、(大神宮の検非違使祗承すべし、)多気川にて禊す、(大神宮司祓物を儲く、)下樋小川、或いは云う鈴の声を停む、(神領と国領との界なり、)件の川は斎宮の東に在り、これに下見橋と下樋小川とを、別にある如く記せれども、下見橋すなわち下樋小川の橋なり。此川は、櫛田川多気川などより西にあり、斎宮の東に在りとあるも、たがえり。斎宮は、多気川の東なればなり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る