玉勝間 / 十二の巻 さかゆるをさかふると云ふはひがことなるよし
榮ゆると云ふ言を、近き世には、さかふると云ふを善しと心得て、然書くはいみしきひがことなり。古へはさらにも云はず、台記)別記にも、故尼上ノ侍女榮とある、榮は侍女の名なり、これを左加由留とも書れたり。かの頃までも、さかふるとは云はざりし事知るべし。聞ゆるをきこふると書〓も、同じひがことなり。
新字:栄ゆると云ふ言を、近き世には、さかふると云ふを善しと心得て、然書くはいみしきひがことなり。古へはさらにも云はず、台記)別記にも、故尼上ノ侍女栄とある、栄は侍女の名なり、これを左加由留とも書れたり。かの頃までも、さかふるとは云はざりし事知るべし。聞ゆるをきこふると書〓も、同じひがことなり。
書き下し
栄ゆると云う言を、近き世には、さかうると云うを善しと心得て、然書くはいみしきひがことなり。古えはさらにも云わず、台記の別記にも、故尼上の侍女栄とある、栄は侍女の名なり、これを左加由留とも書かれたり。かの頃までも、さかうるとは云わざりし事知るべし。聞ゆるをきこうると書くも、同じひがことなり。
現代語訳
「栄ゆる(さかゆる)」という言葉を、近ごろの世には「さかふる」と言う方がよいと心得て、そう書くのはひどい誤りである。古い時代は言うまでもなく、『台記』の別記にも「故尼上の侍女、栄」とあり、栄は侍女の名だが、これを「左加由留(さかゆる)」とも書いておられる。あの頃まででも「さかふる」とは言わなかったことを知るべきである。「聞ゆる」を「きこふる」と書くのも、同じ誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十二の巻 さかやかすと云へる詞小右記に、大夫の名は隆家、訓読にいえさかやかすと云う、尤も興有る事なり、と有り。さかやかすと云う詞、俗きに似たり。そのかみも、かくも云えりしにこそ。絶やす燃やすなどの例に、さかやすと云うべき事とぞおぼゆる。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事またかくれが、すみかなどのカに、家の字を書くは、ひがことなり。これらのカは、処の意にて、家と云う事には有らず。されど処と書くべきにはた有らざれば、ただ仮字に書くぞ善き。また隠が、住かなど、上を真字、下を仮字に書きたるは、こちなく見ゆ。このたぐい皆同じ。さびしに淋の字、いかにぞやおぼゆ。ながめに詠の字もいかが、詠は、声を長むることにこそ有れ、物を見るながめには、よし無し。さてまた常に目なれぬ文字をつかう事、すべて悪ろし。すべて上の件のたぐいの事ども、なおいと多かるを、今はただ思い出ずるままに、一つ二つ云えるのみなり。なずらえて心得べし。そもそも古人は、必ずさしもこまかには物せず、物書きたるも、おおらかにて、文字なども、心にまかせて書きたれば、今もただいかに書きても有りぬべし、さまでこちたく事を分けむは、くだくだしき後の世心にこそ有らめ、と思う人、有るべし。すべて古をこのみて、万ずに心高からむとかまうる人は、かかる事云うをば、心ひきく拙きわざと、もどくべかめれど、それ然しも有らじ。
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『玉勝間』七の巻 物書くに心すべき事歌など、またさらぬことも、物書くに心得べき事ども有り。あれば、ゆけば、きけば、さけば、ちれば、など云うたぐいの言を、誰れも、有ば、行ば、聞ば、咲ば、散ば、と書く事なれども、然か書きては、あるはとも、あらばとも読まれ、その外もそのじょうにて、まぎるる故に、語の意知らぬ人は、読み誤りて、写すとては、ゆけばなるを、ゆくはとも、ゆかばとも、仮字にもかきなす事有り。さればかくたがいに読みまがうべき言は、みな仮字に書くべきわざなり。また霞、契などを、用言に、かすみけり、かすむ月、ちぎらぬ、ちぎる言の葉、などように云うを、霞けり、霞月、契ぬ、契言の葉、など書くは悪ろし。用言に云う時は、霞みけり、霞む月、契らぬ、契る言の葉、などように、はたらく文字をそえて書くべし。すべてかく体と用とにつかう詞は、用の時は、はたらく文字を添えて書かざれば、まぎるること有るなり。はたらくもじとは、霞まん、霞み、霞む、霞めの、マミムメのたぐいなり。またもみじばと云うに、ただ紅葉とのみ書きては、もみじとのみ云うと、まぎるる故に、つねに紅葉葉と書く事なれども、こはいと有るまじき書きざまなり、もみじ葉と書くべきなり。葉をば真字に書くべし、これをもともに仮字に書きては、テニヲハのハにまぎるればなり。
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