玉勝間 / 十二の巻 事のはじめてそのきはになるを口と云ふ事
俗語に、事の始めて其際になるを、某口と云ふこと、ふるし。拾遺集物ノ名に、くち葉色の折敷、「あしひきの山の木ノ葉のおち口は色の惜しきぞあはれなりける。
書き下し
俗語に、事の始めてその際になるを、なにがし口と云うこと、ふるし。拾遺集物の名に、くち葉色の折敷、あしひきの山の木の葉のおち口は色の惜しきぞあわれなりける。
現代語訳
俗語で、物事が始まってその時期に入るのを「何々口(くち)」と言うのは古いことである。『拾遺集』の物の名の部に、「朽葉色の折敷」を詠み込んで、「山の木の葉が散り始める頃は、その色が惜しまれるのがしみじみと心にしみることだ」とある。
解説
「宵の口」「降り口」のように、物事の始まりの頃合いを「〜口」と言う俗語が、平安時代からあったことを示す段である。証拠は拾遺集の物名歌で、「くち葉色のをしき(朽葉色の折敷)」という物の名を、「おち口は色の惜しき」と歌の中に隠して詠み込んだ一首である。そこに「落ち口」、すなわち木の葉が散り始める頃という言い方が見える。物名歌は言葉遊びの歌だが、遊びの中にも当時の日常の言い回しがそのまま使われている。宣長は、和歌を美しい文学として読むだけでなく、言葉の用例の宝庫としても読んでいた。俗語の由来を歌集に求めるこの手法は、玉勝間に繰り返し現れる。卑近な言い方と雅な歌の世界が、一つの言葉でつながっているのを見つける楽しさがある。
関連する章句
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