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玉勝間 / 十二の巻 屎まるをはこすと云ふ事

くそを、此伊勢の國の山里人など、はこと云ふことあり。そは古、は然るべき人は、糞を箱もてとりて、捨てけるより出て、古き詞にぞありける。ある物語書に、平仲が、本院の侍從と云ふ女房を、ふかく戀ひ思ひたる事を云へる中にいはく。思ひわびて思ふやう、此人(侍從を云ふ)かくおかしくとも、はこにしたらん嗅ことは、たれも同じやうにこそあらめ、これをさがして、見かぎなどして、思ひとまりなむと思ひて云云、と云へり。はこにしたらむ事とは、糞を云へるなり。

新字:くそを、此伊勢の国の山里人など、はこと云ふことあり。そは古、は然るべき人は、糞を箱もてとりて、捨てけるより出て、古き詞にぞありける。ある物語書に、平仲が、本院の侍従と云ふ女房を、ふかく恋ひ思ひたる事を云へる中にいはく。思ひわびて思ふやう、此人(侍従を云ふ)かくおかしくとも、はこにしたらん嗅ことは、たれも同じやうにこそあらめ、これをさがして、見かぎなどして、思ひとまりなむと思ひて云云、と云へり。はこにしたらむ事とは、糞を云へるなり。

書き下し

くそを、この伊勢の国の山里人など、はこと云うことあり。そは古は然るべき人は、糞を箱もてとりて、捨てけるより出でて、古き詞にぞありける。ある物語書に、平仲が、本院の侍従と云う女房を、ふかく恋い思いたる事を云える中にいわく。思いわびて思うよう、この人(侍従を云う)かくおかしくとも、はこにしたらん嗅ぐことは、たれも同じようにこそあらめ、これをさがして、見かぎなどして、思いとまりなむと思いて云云、と云えり。はこにしたらむ事とは、糞を云えるなり。

現代語訳

糞のことを、この伊勢国の山里の人などは「はこ」と言うことがある。それは、昔は身分のある人は糞を箱で受け取って捨てたことから出たもので、古い言葉なのである。ある物語の書に、平仲(平貞文)が本院の侍従という女房を深く恋い慕ったことを語る中にこうある。「思い悩んで考えたことには、この人(侍従のことを言う)がこれほど魅力的でも、箱にしたものの匂いを嗅ぐことは、誰でも同じようなものであろう。これを探し出して見たり嗅いだりして、思いを断ち切ろう、と思って」うんぬん。「はこにしたらむ事」とは、糞のことを言ったのである。

解説

伊勢の山里で糞を「はこ」と呼ぶのは古い言葉の名残だ、という考証である。昔、高貴な人は便器として箱(おまる)を用い、そこから糞そのものを「はこ」と言うようになった。証拠に挙げるのは、平安の色好み平中(平貞文)が本院の侍従に恋い焦がれ、思いを断つためにその「はこ」の中身を見て嗅いでやろうとした有名な話で、今昔物語集などに見える。宣長は話の滑稽さには触れず、ただ言葉の用例として淡々と引いている。宣長の足元、伊勢の山里の口語に、平安の宮廷の言葉が残っているのである。卑俗な語だから記録に値しないとは考えず、むしろそこにこそ古語が生きていると見る。言葉を上品・下品で選り分けない学者の公平さがあり、方言を古語の宝庫とみる国学の視点がよく出ている。

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