玉勝間 / 十二の巻 時なか
半時をときなかと云へり。同記にいはく。たふれ臥して、時中ばかり絕入りにし云云。
新字:半時をときなかと云へり。同記にいはく。たふれ臥して、時中ばかり絶入りにし云云。
書き下し
半時をときなかと云えり。同じ記にいわく。たおれ臥して、時中ばかり絶え入りにし云云。
現代語訳
半時(はんとき)を「時なか」と言った。同じ記(厳島御幸記)にこうある。「倒れ伏して、時なかほど気を失ってしまった」うんぬん。
解説
前段と同じ『高倉院厳島御幸記』から、「時なか」という言葉を拾った覚え書きである。昔の時刻は一日を十二の刻に分け、一刻はいまの約二時間にあたった。その半分、すなわち半時(約一時間)を「ときなか」と呼んだのである。例文は、旅の途中で倒れ伏し、時なかほど気を失っていたという記述で、船旅の苦しさがうかがえる。宣長は記録を読みながら、珍しい言葉や今は使われなくなった言い方に出会うと、こうして一つずつ書き留めていった。玉勝間には、この種の短い語彙の覚え書きが数多く収められている。一語の用例を集めることが、やがて古語の意味を確かめる証拠の蓄えになる。大きな学問も、こうした地道な拾い集めの上に立っているのである。
関連する章句
-
『玉勝間』八の巻 まにあはぬ又間にあわぬと云う事も、是れに見えたり。近き世の言には有らず。
-
『玉勝間』六の巻 鶏ときをつくる庭鳥の暁に鳴くを、時をつくると云う事、同じ百首に、「暁の時つくるなり鶏のこえうちかわし羽をならべて、これは告ぐるにても有らんかと思えど、なお今の世にも云うごとく、つくるなるべし。また時の声をつくると云うことも、同じ後〓百首に、「から人はしかのおしまに船出してはかたの沖にときつくるなり。
-
『玉勝間』八の巻 言の然云ふ本の意を知らまほしくする事たとい其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなる所に使いたりと云う事を知らでは、何のかいも無く、おのが歌文に用うるにも、ひがことの有るなり。今の世古学をするともがらなど殊に、すこし遠き言と云えば、まず然云う本の意を知らむとのみして、用いたる意をば、考えむともせざる故に、おのが使うに、いみじきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、然云う本の意と、用いたる意とは、多くは等しからぬ物なり、たとえばなかなかにと云う言はもと、こなたへもかなたへも附かず、中間なる意の言なれども、用いたる意はただ、なまじいにと云う意、又移りては、かえりてと云う意にも用いたり。然るを言の本によりて、打まかせて、中間なる意に用いては、たがうなり。又心ぐるしと云う言は、今の俗言に、気毒なると云う意に用いたるを、言のままに、心の苦き事に用いては、たがえり。されば是等にて、万の言をも、なずらえ心得て、まず古えに用いたるようを、さきとして、明らめ知るべし、言の本にのみよりては、中々に古えにたがう事多かるべしかし。
-
『玉勝間』十の巻 たんざく三代実録廿七の巻に、短籍と見え、また卅五の巻に、短冊とも見えたり。但し歌を書く物にはあらず。
-
『玉勝間』十一の巻 いはゆる御所詞同書に、内裏仙洞には、一切の食物に、異名を付けて召さるる事なり。一向存知せざる者は、当座に迷惑すべき者なり。
-
『玉勝間』十二の巻 十八日をとをかやうかと云へる事栄華物語こまくらべの巻、善滋為政が文に。九月十八日を、ながづきのとおかようかと云えり。とおかあまりようかと云うべきを、はぶきて云えるは、いかがなれども、上のかをはぶかざるは、さすがに古えなり。今の人、上のかを云わずして、とおあまりようかとように書くは、古の例にたがえり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る